なぁ。
先生は、好きな人いないの?
雨の待ち人
薄暗い町。
雨が降っているからか、まだ明るい時分だというのに。
サンジはぼんやりと煙草をくわえながら、机のものを鞄に詰め込む。
時計を見上げると、17時。
「はい。お仕事終了!」
おつかれさーんと、さっさと部屋を出て行くのは同期のエースだ。
普段は運動部の顧問もしていることから帰りが遅くなるため、こんなに早く帰宅できることが相当嬉しかったのだろう。
外は雨。台風が来るのだそうだ。
朝から、温い独特の強い風が吹いていたのを思い出す。
「あなたも早くしないと帰れなくなるわよ。」
「車ですから、大丈夫です。」
向かいの机に座っていた先輩のロビンは、車でも気を付けてねと言い、窓際へ歩いていく。
「ロビンちゃんは帰らないんですか?」
「私?」
窓ガラスを伝って落ちていく雨水がまるで滝のようで、ロビンの後ろの窓からは外の様子はちっとも見えない。
何も見えやしない、ただ薄暗いだけの外。
「私も車なの。」
「残念。車以外でしたら、お送りしようと思ったんですけど。」
「お上手ね。」
笑いながら言うサンジに、クスクスと優しい笑みを返す。
「残業はダメよ。」
お給料も増しにはならないしねと、窓の外を覗き込む。
その仕草が妙に色っぽくて見入ってしまいそうになるが、サンジは自分を叱咤して手元に視線を落とした。
残業なんてする気はない。
エースと同じく、普段は運動部の顧問をしているため自然と遅くなる帰宅時間が、今日は珍しく早くなったのだ。
そんな日を残業なんて勿体無いことに使いたくはない。
机の上をさっと見渡し忘れ物はないなと確認すると、サンジは椅子から立ち上がり鞄を手にした。
「それじゃぁ、俺は帰りますね。」
お先に失礼しますと、その場を去る。
と。
「ねぇ。」
「はい?」
「生徒は全員帰したのよね?」
窓の外から視線を動かさないまま、ロビンが言う。
ロビンは学年主任という立場上、担任は受け持っていない。
そのため、見回りに行かない限り、生徒が全員帰った教室を自分の目で確認できないのだ。
一方サンジは、自分のクラスの生徒が全員帰宅する様子を見ているし、その後新米教師と言うこともあって他の教室の様子も見回って来ている。
「帰りましたよ。」
校舎内に生徒は一人たりともいないはずだ、が。
「じゃあ。」
じゃあ、あの子は?
「え?」
窓に駆け寄る。
そこから見えたのは、笠も差さない、一人の。
いつだって太陽の下で風に吹かれている様な爽やか緑が、瑞々しく、重く鮮やかに映った。
水浸しの生徒を自分の笠に入れてやる。
目を瞑って俯いていた生徒は、俯いたまま、視線だけ見上げる様にしてサンジを見た。
「やっぱ先生だ。」
嬉しそうに微笑む。
「先生だ、じゃねぇ。ロロノア。全校生徒に帰れって言ったはずだ。」
「ゾロ、だ。先生。何べん言ったら覚えるんだ?」
ニコニコと笑みを崩さないまま、ゾロはサンジを見る。まるで会話が咬み合わない。
「先生を待ってたんだ。一緒に帰ろう。」
そう言って、そっとサンジの服の裾を摘む。
遠慮がちに見えるのは、自分のびしょ濡れの身体でサンジを濡らしてしまうことを気にしているのかもしれない。
サンジは溜息を付く。
「一緒に帰ろうじゃねぇよ。」
取り合えず校舎へ連れて行き、タオルを渡してやる。
生徒のいない校舎は暗く、全く別の空間にいるようだと思わせた。
湿った廊下に雨の音が吸い込まれて行く。
渡されたタオルでガシガシと乱暴に身体を拭くゾロ。鞄も濡れて色が濃くなっている。中まで沁みているのだ。
「風邪引くぞ。国体選抜選手。」
「選抜はそんな柔な身体じゃねぇだろ。」
言いながらクシャミをしているゾロを見て、嘘付けと呟く。
禁煙の校舎内、サンジは煙草をくわえた。
雨で湿気てしまって、おそらく火は点かないだろう。再度溜息。
「あのねぇ、こーゆーの止めた方がいいよ。」
「何?」
「だから、用もねぇのに職員室に会いに来たりとか、今日みたく待ってたりとか。」
「何で?」
ありがとうと、ゾロはサンジにタオルを返す。タオルは完全に濡れてしまっていた。
「俺、お前のクラスの担任じゃねぇのよ?」
「担任じゃねぇと喋っちゃいけねぇのかよ。」
そうじゃないけどさ・・・。
サンジの受け持つクラスは3組。ゾロは1組の生徒で、担任はエースだ。
エースは、ゾロがサンジに異様に懐いていることを知っているため、サンジに任せたとずっと放置している。
「いいじゃねぇか。」
「いや、だからさ・・・。」
唸りながら頭を乱暴にかく。
どう言えばいいのだろう。
どう言えば伝わる?どう言えば傷付かない?どう言えば自分は悪者にならない?
自分は、そんなくだらないことを考えていやしないだろうか。
ふと、そう思った。
暗く冷たい廊下は、迷路のように続くのではないかと感じさせる。
人である自分も、ただそこにあるものの一部で、ほんの小さな。狡賢い。愚か者だ。
サンジは自分が哀しかった。憐れに思った。
黙ってしまったサンジを見て、ゾロはサンジが困ってしまったと思ったのだろう。
大丈夫なのだと、笑って言う。
「いいよ。俺が勝手にやってるだけなんだから。」
やばくなったら先生は逃げればいいんだよ。
急激に冷えた頭に、雨の音はよく響く。
笑いながらそんなことを言う。この子はどんな気持ちでそう言うのだろう。
「じゃぁ俺、今日は帰るわ。先生にも会えたし、もういい。」
足元の濡れた鞄を拾って、ゾロは背を向けた。
それを見て、サンジは思わずゾロの腕を取る。動きを止められたゾロは無言で振り向いた。
「俺。今日、車だったわけよ。」
「うん。」
「だからお前が門の前で待ってたって、裏口から出るんだから気付かなかったんだよ。」
「うん。」
「お前はそれでも待ってたんだろ?」
笑っているゾロの表情から少しでも心の中を覗こうと、サンジは睨むようにゾロを見た。
ゾロは答えるように、すっと笑みを解いていく。
「でも、先生は来てくれたろ。」
「ロビン先生がお前を見つけたからだ。」
「それでも。」
ロビンじゃなくて、先生が来てくれた。
再びゾロは笑う。
「今日、この時間。こうして二人で喋れて俺は嬉しい。待っててよかった。」
だからと。この子は、明日もきっと待つのだろう。
呆然とゾロを見つめるサンジを見て、ゾロは不安そうに付け加える。
「だから、待ってたのは俺の勝手だって。」
先生は悪くない。何か特別な事をしようと考えなくていい。俺がすることで困ってるんだろうけど、できることなら困らないで欲しい。
雨粒が大きくなったのか、バラバラと窓を叩く音も大きくなった。
「じゃ、俺、ほんとに帰るわ。」
バイバイ先生と、小さく手を振る仕草が、なぜか擽ったい。
雨の中、笠も持たずに門の前で立っていて、そして雨が強くなっている今、笠を差さずに帰るのだろう。
小さくクシャミした声は、きっと堪えようとしたのだ。咳の様に聞こえた。
心配をかけたくないのだろう。気を使わせたくないのだろう。
「ゾロ!!」
昇降口を出ようとする背中を、大きな声で止める。
ゾロは振り向いたが、返事をしなかった。
廊下から響く雨の音と、昇降口のゾロと、背後に降りしきる雨。
自分は消えて、ゾロが世界で一人きりになったようだと思った。
「台風。もうやばそうだから、送って行ってやる。」
少し離れているが、サンジはゾロが驚いているのが分かった。
「今日だけだぞ。特別。」
驚いていた表情が、花が咲くように笑みに変わる。
雨が降る中。
いつもより濃い色の髪と濡れた肌が、酷く色っぽく見えた。
見入ってしまいそうになるが、サンジは自分を叱咤して必死に視線を反らしていた。
今はいない?
だったらさ、先生。俺のこと、好きになってよ。
「雨の待ち人」end
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