雨は好きだ。
大切なあの人の旅立つ足を止めてくれたから。
でも。
雨の日は嫌いだ。
大切なあの人が死んだ日は、雨が降っていたから。
随分と涼しくなった。
いや、寒くなったのだ。彼の胸の傷もジクジクと痛んでいるのではなかろうか。
そんな霧雨の降る竹薮の道をサンジは一人歩いていた。
傘は差しているが、雨は散らばりすぎて身体を濡らす。
しっとりとした空気と同化しながらサンジは進む。
閑散とした竹薮の奥には大きな屋敷が立っている。
たった一人のためにサンジが用意した屋敷だ。
空気を揺らさない様、音なく門を潜り、屋敷の中へ進む。足音もしない。
大きな屋敷の奥、一番奥の部屋だ。
彼がいる。気配がする。
動いている様子はなく、きっと伏せっているのだろう。
なぜなら、今日は・・・雨の日だから。
******
いつだかどこだか分からない時と場所。
そこに一つの国があった。
とても美しい国で、そこに住むもの全てに愛されていた国だった。
二人の王子がいた。
二人も同じく、自分たちの父の治める国を愛していた。
全て上手くできていた。上手くできすぎではないかと思うほど。
どこにも隙間なんてないと、二人も疑ってなんていなかった。
******
「ゾロ?寝てる?」
襖を開け、そっと部屋を覗きこむ。小さな声は眠っていたなら聞こえないだろう。
畳の部屋は広く、真ん中に敷かれた布団と、床の間に飾られた日本刀以外何もない。
するりと開いた襖の隙間を通って部屋の中に入る。
返事のないゾロは目を閉じている。
胸に大きな傷を抱えるゾロは、傷だけでなく心臓に病を持っている。否、厳密には病ではないのだがゾロはそう呼ぶ。
やはりいつもより顔色が悪く見えるのは、雨のせいなのかもしれない。
起こさない様、隣に座って優しく頬に触れた。
ゾロは温かく。哀しい想いなんてこれっぽっちもないはずなのに。
サンジは泣き出しそうだった。
******
始まりは二人の王子だったと言うべきか。
ある日、城の庭師の息子が、ぽつりと言った。
『二人のうち、どちらが次の王様になるの?』
歪みとは些細な事から生まれるものだ。
その一言は小さな歪みを生み、やがて国をも揺るがした。
王は頭を抱えた。
二人の王子は、ただひたすらに哀しかった。
******
水面に波紋が広がるように、ゾロの瞳が開く。
ぼんやりとした瞳が天井を彷徨い、頬に触れるサンジを見つけた。フワリと笑う。
「来てたのか。」
「うん。今ね。」
ゾロの笑みにサンジも答える。ゾロの頬に触れることはやめない。
雨を潜ってきた手はヒヤリとして心地良いのか、触れていた手にゾロからも擦り寄ってくる。
「何してたの?」
「何もしてねぇよ。寝てた。」
誰もいない広い屋敷に一人、病で伏せっている彼が何をすることがあるだろうか。
サンジは答えを知っている質問をする。
分かっていてもどこかで不安を感じている自分を安心させるためだ。
「今日はいつまでいれるんだ?」
来た早々そんなことを聞く。いつもここに居る時間がバラバラだからだ。
本当はずっと居たいけれどゾロの身体を気遣い、長かったり、短かったりする。
サンジは困ったように笑った。
「そうだな、今日はちょっと長くいよう。ゾロが眠いなら、一緒に眠ろう。」
******
国の勢力が二つに分かれた。
一方は一人目の王子を新たな王にしようと、もう一方は二人目の王子を新たな王にしようと動く勢力だ。
子どもの頃からともに過ごしていた二人の王子は離れ離れになってしまう。
しかし、二人の想いが離れることはなかった。
二人は国を愛していたし、国に住む人々を愛していた。
深く、深く。疑う余地もないほどに。
******
鳥の泣く声も聞こえない。
虫の呼ぶ声も聞こえない。
風も木も。ただ雨の音が広がるだけだ。
ゾロの布団の隣で横になり、布団の上からゾロの身体に腕をフワリと乗せた。
すると、天井を向いていたゾロがサンジの方に身体を向ける。
「傷。痛いの?」
違うと首を振り、ゾロは布団を捲り上げる。
「お前も入れ。寒いだろ?」
サンジが笑う。そして悪戯に言う。
「いいの?触っちゃうよ?」
「別にいい。お前の手、好きだし。」
手だけ?
サンジは嬉しくて仕方なくなって、ゾロの布団の中へ潜り込んだ。
とても温かい。冷たさなんて、何一つ感じない。
******
『こんなことがあっていいのだろうか?』
『国をよくするためなのだろう?』
『本当に、国がよくなっているように見えるのか?』
『新しいことを始めると言うのは、こういうことなのかもしれない。』
『それでも。こんな争いが本当に・・・。』
『そんな心配そうな顔するなって、すぐに治まるよ。』
『・・・』
『頼むからさ、そんな顔するなよ。皆この国を本当に大事に思ってるだけだよ。』
王子たちの願いも虚しく、争いが治まる様子は無かった。
王子たちが歳を重ねるごとに、相続問題は大きくなる。
「俺は城を出るよ。」
「え?」
久々に二人きりで会った二人の王子。
一方は強い決意を秘めた瞳を、一方は不安に揺れる瞳をしていた。
「この問題は、相続権を持った人間が二人いるから起こった事だろう?」
二人がいる限り終わる事はないのだ。
「お前は知っているか?俺を王にしようとしている勢力が、お前の暗殺を計画している。」
ばかばかしいと、歯を食いしばり、憎しみの念を込めて言葉を吐き出す。
「俺は気付いたんだよ。」
何を?
強く言葉を放つ王子とは違い、もう一人の王子は言葉がでない。
突然の言葉に驚いただけではないのだろう。しかし、まだそれが何なのか分からない。
「俺はこの国を愛してなんかいやしない。」
「じゃぁ・・何で?」
「国がどうなろうと、俺はどうでもいい。」
「じゃあ何で!!」
その言葉は、この国を愛するもの全てを敵に回すだろう言葉。許されない言葉だ。
二人の王子は目を離さない。
国を愛していない王子は静かに、もう一人を見つめる。
国を愛して止まない王子もまた、静かに、しかし燃える様な瞳で見つめている。
「俺がここにいるのは、この国のためなんかじゃない。」
じゃぁ、何で?
泣き出しそうだ。ともに育った者同士、ともに国を愛していると、何よりも国のためを思っているのだと信じていた、一番近くにいた者が。
まさかこんな言葉を吐くなどと。
「俺は明日、国を出る。」
「え?」
「国王にはお前がなれ。国を愛しているお前が国王になるべきだ。」
夜とは違う、黒い雲が二人を暗がりへ連れて行く。
その日は朝から雨が降っていた。
国を出ると言った王子は、朝からの雨で足止めされている。
もう一人の王子は、どこかでほっとしているのを感じていた。
例え、自分の信じていた思いと別のものを持っていた彼でも、このまま離れてしまうなど考えられなかったのだ。
二人は生まれてから、ずっとともにいたから。
「雨が止んだら本当に行くのか?」
「ああ。」
「・・・本当にこの国を。」
「出るよ。」
王子は、国を出ると言った王子の心の中が覗けない。
本当に彼は、この国を愛していないというのだろうか。
今までは嘘だったのか。
「でも、雨が降ってくれて感謝してるかもしれない。」
そう言って力なく笑う彼が、とても哀しく見えた。
「お前はこの国好きだろう?」
「あ、当たり前だ!」
じゃ、やっぱお前がなるべきだ。そう言って、目を伏せる。
二人でいると、お食事の時間ですと、声が掛かった。
雨は止む気配がない。きっと食事が終わっても、止まないだろう。
たった二人で用意された食事を取る。長く大きな食卓にたくさん並ぶ美しい料理たち。
鮮やかに彩られた食卓は、温かな香りで包まれている。
でも彼らが必死に食事する人を喜ばそうとしても、二人の間に笑顔はない。なら、そんな料理たちが可哀想だ。
「こうして食事するのも最後だ。」
「そうだな。」
ずっと幼い頃から二人で食事をしていた。二人は二人きりじゃない、たった二人だ。特別で、唯一だ。
「お前が行ってしまったら、俺はこの先一人きりで食事を取る事になるな。」
「そうだな。」
「なぁ。」
王子たちは向かい見詰め合う。
この国を愛していないなんて嘘なんだろう?
俺たちは同じ時間、同じものを、同じだけ愛して笑い合っていたんだろう?
二人の王子は哀しい。
見詰め合ったまま、叫び出しそうな沈黙をひたすら守っている。
出て行くと言った王子は口を開いた。
「人に、本当に一番と呼べるものがあるとする。」
ならば、それを見つけることの出来る人は一体何人いるのだろう。
そして、それが本物の一番だと気付く事の出来る人は、一体何人いるのだろう。
「本当は黙って出て行こうと思ってたんだ。」
沈黙を守っていた王子は、驚きと怒りで思わず立ち上がる。
ガタンと耳障りな音を響かせて、椅子が後ろに倒れたのが分かった。
「言うつもりはなかったんだ。こうして話しているだけでも、ダメだと思ったんだ。」
「何で!?」
初めてだろう。出て行くと言った王子を、そのことで責めたのは初めてだったろう。
声を荒げ、食卓の料理など気にすることなく怒りに任せて拳を振り下ろした。
まるで子どもが駄々をこねているようだと、頭の後ろでボンヤリと様子を見ていたもう一人の自分が思う。
「この国は綺麗だ。俺は、この国が好きだ。」
でも。
「ならどうして?」
でも、一番じゃなかったから。
自分は決してこの国を愛していたわけではない。
「俺は楽しくて仕方なかったんだ。お前とこの国にいることが。」
自分が一番に想っていたものは国ではなく。
「俺はきっとお前の事が好きなんだろう。」
王子は立ち尽くす。淡々と話すもう一人の王子を見つめたまま。
好きとはどんな気持ちだろうか。
目の前の人を愛しいと思う気持ちだろうか。
この国を去ると言った彼を許せないと、裏切りにも似た気持ちを抱いたのはなぜか。
今なら答えることができるんじゃないだろうか。
それなら。
今、自分は何と答えるべきなのだろう。
生まれた沈黙を殺したのはカチャリと鳴った食器の音だ。
「飯が不味くなっちまうぞ。冷めない内に食べちまおう。」
そう言って、目を合わせないまま彼は食事を口にする。
雨は止んではいないが、散り散りに舞う。もう止んでしまうのかもしれない。
いつも通り食事を取り、答えを待つことなく、一人王子は城を去った。
******
緑の髪に鼻を埋める。
自分の買っておいたシャンプーの香りがした。
ゾロはサンジの買ってきたものしか使わないし、サンジ以外の人間とはここ数十年会っていない。
「ゾロの匂いがする〜。」
「お前は相変わらず煙草臭いな。」
胸元の服に鼻を寄せ、スンスンと鼻を鳴らす。サンジは思わず抱き寄せた。
痛い、鼻が潰れる。と、ゾロから抗議の声が聞こえるが、ぎゅっと力を込める。
「雨、降ってるけど。本当に痛くない?」
「痛くない。」
心配するなと、ゾロがそっとサンジの腕に触れる。優しく撫でる。
「雨の日。嫌いなんだ。」
「俺も苦手だ。」
「雨は好きなんだけどね。」
「我侭だな。」
そう、俺は我侭なんだ。だからゾロを独り占めしたくてこんな場所に閉じ込めている。
「ごめんね。」
「何が?」
「ごめんね。」
二度目のそれに、ゾロは答えなかった。
******
「どういうことだ?」
身体全体を巡る血が煮えたぎるようだ。
あまりの怒りに、王子は自分の立場を忘れてしまっていた。
「国境を越えるまでに、お命はないかと。」
「なぜだ!!」
「あなた様が、次の王になるためです。」
先ほど、彼が城を後にする前にともに取った食事に細工をしたと、目の前にいる男は言った。
毒を仕込んだのだ。
「そんなことをしなくても、あいつは国を出て行くって言っただろ!」
「抵抗勢力をなくすためです。不安要素を取り除くのは私どもの仕事です。」
あなた様のためです。
この男は、自分のために彼を殺すと言う。そんなこと頼んでもいないのに。
「連れ戻せっ!何としてでも生かせ!!俺の前に連れて来い!!!」
叫んでいた。やっと気付いたのだ。
ねぇ。
ねぇ。
お願いだから、これ以上裏切らないで欲しい。
例えば一番だと想っていたものが偽ものでも、大切だと想う事に嘘はないのだから。
それでも、偽ものがこれ以上自分を裏切るのなら、その時は。
整った顔立ちは母親似だった。
綺麗な肌は、転んだのだろうか泥がついている。
街を出て、国境を越えるために入った山の中。そこで彼の命は尽きた。
それを山賊か何かが見つけたのだろう。彼が城から出るために持って出た数少ない荷物は身に着けている服しか残っていなかったそうだ。
身体さえ残っていれば十分だ。身に着けていたものなど興味はない。
そっと顔に触れると、口の端に血がついているのが見える。
毒の苦しさを堪えるために口の中を咬んだのかもしれない。
数時間前、ともに食事を取ったその人は、今は物言わぬ人型だ。
人に、本当に一番と呼べるものがあるとする。
ならば、それを見つけることの出来る人は一体何人いるのだろう。
そして、それが本物の一番だと気付く事の出来る人は、一体何人いるのだろう。
この国を想い、彼と語り合った日々を思う。
それは数時間でも数日でもない。何年も、何年も。ずっと長い二人の時間だった。
愛していた国に彼は殺された。そして自分はその国の王だと言う。
くだらない。国王に誰がなるかなど二人にはどうでもよかったのだから。
この国が美しいままであるのなら、それを二人で愛でることができるのなら、どうでもよかったのだ。
自分にとって、彼の言った一番と呼べるものは何なのだろうか。
国?愛すべき国?
愛していたからこそ、これほどまでに憎いのか?
彼を殺したこの国が?
たった一人の人間が死んだ事が?
『俺はきっとお前の事が好きなんだろう。』
彼を特別だと、唯一だと気付いたのはいつだったろう。
きっと彼が自分を好きだと言った後だったと思う。
気付いたはずなのに。
どうして自分は彼の言葉に答えなかったのか。
王子は、力なく横たわった物言わぬ彼に優しく語り掛ける。
「好きだよ。俺も好きだ。父上よりも、母上よりも。この国よりも。」
もう間違えないから。だから。
神様にだって、今頃遅いだなんて言わせない。
王子はナイフを取り出し、今は動かない彼の心臓に突き立てる。
契約を結ぼう、悪魔よ。
愛した全てを捧げよう。この愛すべき国を、愛すべき国に生きる全てを。
だから。だから、もう離れ離れはやめよう。
なぁ、・・・ゾロ。
いつだかどこだか分からない時と場所。
そこに一つの国があった。
とても美しい国で、そこに住むもの全てに愛されていた国だった。
今はもうない国。些細な歪みに狂わされた国王に、滅ぼされた国。
些細な歪みとは呪い。悪魔との契約。
自分の望みを叶える為に、この国全てを捧げた。
些細な歪みが世界を飲み込む瞬間、幾つもの命が消えた。街も人も、全て。
たった、二人を残して。
******
部屋の外から鳥やら虫やらの声がする。
雨が止んだのだろう。
ゾロはこの屋敷から出たことがない。
身体の調子がいいときは庭に出たりはするが、屋敷の外、外の世界を知らない。
目を閉じて動かないゾロは眠っているのか、サンジは愛しげに眺める。
遥か昔、自分しか覚えていないだろう過去。
国を出ると言った彼も、外を知らなかった。
もしもゾロが、再び彼のように自分の元を去ると言う日が来るのかもしれないと思うと、サンジは恐ろしくて堪らない。
もしゾロがサンジの元を去るのなら、呪いによって機能しているゾロの心臓はその動きを止めてしまう。しかし、そんな日は恐らく永遠に来ないだろう。
呪いは成功している。恐ろしいまでに。
「ごめんな。」
そう言って、そっとサンジはゾロを抱き寄せた。
「謝るな。」
静かに瞳を開いたゾロが、サンジをじっと見つめている。
「謝るなよ、頼むから。」
「ゾロ?」
「心臓に爆弾抱えてる厄介な荷物かもしれねぇけど、俺にはお前しかいらねぇよ。」
厄介な荷物だなんて思ったことはない。
「ずっとずっと、お前が来るのを待ってるよ。お前だけを。」
「うん。」
何度も頷いて、声のない返事をゾロに返す。
「お前に嘘なんかつかないよ。お前は俺の世界そのものなんだから。」
ゾロの世界はサンジしか知らない。
この広い屋敷は、ゾロの世界そのものだ。そしてゾロは世界に手を加えることはしない。
サンジが望まない限り、呪いは終わらないし、二人きりの世界が滅びることはない。
泣き出しそうな瞳を閉じて、サンジはゾロの体温を引き寄せる。
「ありがとう。」
「そりゃ俺のセリフだ。」
こうして二人きりの世界を望んだのは、どちらが先だったろう。
呪いという手段で、たくさんの命と引き換えにたった二人の世界を作りだした。
「もう少し寝てもいい?」
「寝るのは好きだ。」
「寝汚ねぇなぁ。」
窓の隙間から差し込み始めた光に、雨雲が切れたのだなと思う。
こんなに明るい光の差す呪いがあっていいのだろうか。
沢山の命と引き換えに手にしたものは、恐ろしいまでに幸せだった。
だからこそ、これ以上何も裏切ってくれるなと。
瞼の裏、その暗闇に降る雨に、いつだって二人は静かに祈り続けるのだ。
「永遠とは、雨に祈るもの」end
2005.11.11
ゾロ誕生日です。・・・話は辛気臭いぞ。(申し訳ないです・・・)
ごめんな、ゾロ。皆さんにごめんなさい。
今年も楽しくミナトさんと遊ばせて頂きました。
ミナトさん、ありがとうございます。
読んで下さった方、ありがとうございます。
そしてゾロ、ありがとう!!おめでとう!!
帽子屋より