テヲツナグ。
眠る姿はそこいらで目に入っていた。それが普段だったからだ。
シーツに横たわる姿は、重病人を思わせて嫌だ。
サンジは煙草の煙を外に逃がすために、部屋の窓を開けた。
天気は曇りで、今の心境を思わせるもののようだ。
即席で作られるベッドには、ゾロが眠る。
少し前まで様子を見ていたチョッパーは顔を洗うために洗面所に向かった。
ゾロはもう治らないほど壊れてしまった。
そう言ったチョッパーの目は真っ赤で、涙は止まる事を知らないかのように溢れ続けていた。
始めにおかしいと気付いたのはロビンだった。
その日、ゾロは日課とも言える筋トレに勢を出していた。
小一時間、鉄塊を振り回し、休憩を入れる。そうして、再び鉄塊を振り回す。
いつもと同じはずだった。
「剣士さん、休んでいるのかしら。」
ティータイムにと、パラソルの下で読書をしていたロビンにサンジがアップルティーを持ってきた時だった。
いつものことじゃないですか、とサンジはヘラヘラと笑いながら答えた。
「でも、さっきシャワーを浴びに行って、またああしているのよ。それが三度目なの。」
え?とサンジは固まり、ゾロを見る。
鉄塊は重いため、汗が噴出す。しかし、ゾロの目には強い意志を思わせ、軽々と振り回しているように見えるのだ。
今はどうだ、確かにいつもと同じだが、どこか疲れを感じさせる動きだった。
「あんなに無理してたら強くなるどころか、身体を壊してしまうわ。」
麗しきレディに心配を掛けるなんて許せませんと、サンジはロビンに一礼し、ゾロの元へ足早に駆けていく。
カラリと晴れた天気だが風もあり、暑さなど感じなかったはずが、ゾロの周辺は熱気が立ち込めている。
ツンと鼻を突く汗の匂いがいつも以上だった。
「おい、クソマリモ。てめぇ、今日はやけに熱心に励んでるじゃねぇか。」
サンジが後ろに立っていることも気配で気付いているだろうに、振り返らないゾロに自然と苛々する。
煙草のフィルターを噛んで、口に苦い味が広がった。
「熱心?いつもと同じだろ?」
振り返らず、鉄塊を持ったままゾロは息を吐くのと同時に言った。その声は疲労を感じさせた。
「いつもと同じ?いつもならこの時間、お前は昼寝中だよ。やり過ぎだ。今日はもう止めろ。」
「何言ってんだ?」
鉄塊はゴトリと音を立ててゾロの足元に置かれた。ゾロが振り返る。
「まだ、千回も振っちゃいねぇよ。始めるのが遅かった。」
何の迷いもなく言い放つが、おかしいのは明らかだ。
今は午後。
ゾロは朝食のためにサンジに起こされ、それから寝ていない。
昼食までトレーニングをしていた。サンジが昼食前に呼びに行ったときに確認しているのだ。
そして、昼食後もロビンが確認している。
そして、極め付けにはゾロの服装だ。
いつものシャツにハラマキではなく、サンジがゾロに貸した柄物のシャツにトレーニングパンツ。ブーツも履いていなかった。
これはゾロの寝る前の服装だった。
「お前、風呂入ったんだろ?だのにまた汗まみれになってるしよ。」
「風呂?」
ゾロは自分の姿を見ると、初めて気付いたといわんばかりに驚いた。
「あれ?俺、いつ風呂に入った?」
おかしいなぁと、言いながらゾロは汗を目一杯吸ったシャツを脱ぎ始める。
今日は動いてもいないのに汗が良く出ると、不思議そうな顔をしてゾロは自分を見ていた。
「取りあえず、もう一回風呂入れ。んで休め。」
シャツをゾロから取り上げ、風呂場に連れて行く。
別の新しいシャツを出し、着替え用の籠に入れてやる。
ロビンが感じていたように、サンジも何も感じなかったわけではない。
違和感はあったのだ。おかしいと思っていたのだ。
だが、ゾロの世話をやくことが楽しくて仕方なくて、どうでもいいと思っていたのだ。
水底から水面に浮き上がるかのように、ゾロは目を覚ました。
暫くぼんやりと天井を見ていたが、視界に煙が見えて横を向いた。
サンジがベッド脇の足元に座っていた。
サンジもゾロが目を覚ました事に気が付き、煙草を銜えたまま微笑んだ。
『脳に障害がある。
何でとか、何処でとか、全く分からないけど、それはある。
記憶の障害で、一定量しか記憶が保管できない。
今現在でゾロの脳は記憶の容量が一杯になっているから、
これ以上増やそうとすると、今までの記憶が消える、もしくは新しい記憶を持つ事ができない。』
つまりそれは、ギリギリまで注がれたコップに再び水を注ぐようなもので、注げば水は溢れ出てしまう。
その溢れ出るものが、今注がれた水か、元からコップに入っていた水か分からないが、水は溢れ出てしまうことに変わりはない。
「可哀想だとかは言わねぇよ。むしろ、俺の方が可哀想だ。」
好きだとやっとの思いで告げて、頷いて答えたくれたのに。思いは同じだと交し合えたのに。
短くなった煙草の火を、靴の裏で消した。新しい煙草をポケットから探したが見つからない。
サンジが苛々しているのを、ゾロは気付いていた。
「やめるか?」
なかったことにするかと、続けようとした時、ゾロは横になったまま胸倉をサンジに掴まれ、息を詰める。
「ふざけんな。」
ふざけんなと、もう一度掠れた声で言う。
怒りを孕んだ目には、今にも零れ落ちそうな涙が溜まっていた。
ゾロはそうやって豊かに感情を表現できるサンジを羨ましいと思い、酷く愛しく感じた。
「だったら大丈夫だろう?本当に大事な事だったら忘れないだろう?」
サンジの目が見開く。涙が零れた。
ゾロはサンジの頬を撫でた。
自分にできる優しさが全て伝わればよいと。大切なものに触れるように。
涙で濡れた頬に張り付く前髪を除ける。すると見たこともない海の色が顔を出した。
ゾロはその色を愛した。
サンジは撫でる手を優しく握り、キスをした。
「怖くないの?」
「怖くなんてねぇよ。・・・逃げたくねぇ。」
涙で潤んだままの瞳は不安に揺れる。海の色が澄んでいくのを、ゾロはじっと見ていた。
「お前らしいよ。俺は怖くてしかたない。」
きっと、お前の分まで怖いからだ。
握り締めたゾロの手に、擦り寄る。
目を閉じ、何かに祈るように。同じ思いだと伝え合ったあの日のまま、この思いは変わってはいないだと。
答えるようにゾロも握り返す。きつく。硬く。
何でこんな事になるんだ、とか。
何をして、こんな目にあうのだ、とか。
そんなことは言ったところで糞の紙くずにもなりはしない。
それでも思わずにいれないのは、弱さからだろうか。
繋ぎあった手から生まれるのは、この世の何ものにも勝る輝きを放つ、美しい願いだ。
ならば、これは弱さではない。
サンジはゾロの肩口に頭を埋め、ゾロの匂いを目一杯吸い込んだ。
ゾロはサンジの頭を優しく包む。安心したように大きく息を吐き、サンジはベッドに潜り込む。
手を握ったまま、包み込むように抱き合い、二人で眠った。
曇っていた空からは、雨が降り始めた。
テヲツナグ。 end