赤色ナミダ。





何をしたところで今更。


「自分の思い通りにならないのは気に入らない?」
怒りも、悲しみも。何も感じさせない声。
メリー号の船首。その定位置で、海を眺めて座るルフィの背中は何も答えなかった。
押さえ込んでいるものが溢れそうになるのを、ナミは他人事のように感じていた。
「何でチョッパーを殴ったの?」
自分の感情を誤魔化そうと、笑みを浮かべる。
ナミは振り向かないルフィの背中を睨んだままだ。
海は静かだった。人の気配のする船さえも。
黙り込んだルフィは、そんな海に溶け込んだようだった。痛いものから必死に目を反らすかのように、ずっと遠くを眺めている。
ナミも静かだ。
しかしそれは、破裂前の静けさ。体の奥底が焼けるように熱かった。
「私が今、あんたを見て何がしたいか分かる?」
拳を握り締めると、身体中に熱が巡る。全身から炎が噴出すような感覚。
「その背中を蹴飛ばして、海に突き落とそうかと思ってんのよ。アホゴム!!」
ルフィは答えない。
怒りを露にするナミとは対象に、冷たい氷を思わせるルフィ。
「あの子が何も思わないでゾロを手伝ったとでも思ってるの?何を思って、どう感じたのか。それを考えての行動なんでしょうね。あんた。」
馬鹿だとは思ってたけどここまでとは思ってなかったと、ナミは言い放った。
身体の奥から何かが飛び出すかと思うほどに。

買出しに出かけた船員が戻ると同時に、ゴーイングメリー号は港を出た。
そんな中、いつもゾロにくっついて回っていたルフィが、船内でゾロを捜す事はなかった。
戻ってきた船員全員にチョッパーが、ゾロは格納庫で寝ているからそのままにしてやってくれと言ったのだ。皆、それを信じた。
しかし、食事の時間になっても一向にゾロは格納庫から出てこない。痺れを切らしたルフィがキッチンの扉を開こうとした時、チョッパーは言った。
ゾロは船を降りた。格納庫にいるなんて嘘だ、と。
船が港を出て、半日以上たっていた。
食事前で温かかったキッチンの空気が止まったと同時に、ルフィはチョッパーを殴った。

「だっておかしいだろ?ゾロと一緒にいたいなら何で手伝うんだよ。」
「そうすることでゾロが少しでも楽になるならって思ったからでしょ。」
誰もが望んだことではないのだ。きっとゾロ自身だって。
「ならみんなに言えばいい!」
「それができなかったから、チョッパーだけに言ったんでしょ!」
「何で出来なかったんだよ!」
そんなことナミは知らない。でも、恐らく自分なら言う事はできなかったろうと思う。
そう思えば、ゾロがチョッパーだけに伝えた事も分かる気がするのだ。だから黙っていた。
「おかしいだろ?仲間はチョッパーだけじゃねぇ。」
言えばいいじゃねぇか。帰ってくる気があんなら。
ルフィは自分が置いていかれたと思ったのだろう。ずっと傍にいて、自分はゾロの特別なのだと思っていたのだろう。
まるで子どもだ。そして、ゾロはそれを許していた。
「船長は俺だ!ナミじゃねぇし、チョッパーじゃねぇし、ゾロでもねぇ俺だ!!!」
ずっと目を合わせようとしなかったルフィが、ナミを見て言った。
瞳の中には怒り。しかし、水面に波紋が広がるような物悲しさも感じさせた。
その瞳にナミの心も震える。
「もしも。もしも、ゾロがあんただけに言ってたら、どうするつもりだったのよ。」
「もしももクソもねぇ!」
「いいから!!言いなさいよ!!!」
八つ当たりし合っている。声を荒げてしまいがちな自分とルフィに、そう思った。
この想いは、きっと何をしても消えない。
「降ろしてなんてやらねぇ。俺の全部を掛けて止めてやる!そんなことさせるか!!」
大きく息を吸い、ルフィは吐き出した。
畜生、畜生と歯を食いしばる。トレードマークの麦藁帽子を深く被るその姿は、泣いているのだろうと思わせた。
船長であるはずの自分。結局、何もできないでいる自分。
少年が精一杯背伸びをしてみせても、なかなか埋められるものではないのだ。
その現実が。無力な自分が、許せないでいるのだろう。
それは私も同じなのだと、ナミは俯き、馬鹿と一言呟いた。
ルフィも、チョッパーも、ゾロも、自分も。皆、馬鹿ばかりだと。
ナミは俯いていた顔を無理矢理上げ、真っ直ぐ海を見た。
波は嫌なくらい穏やかで、風も柔らかい。最高の航海が期待できそうだった。
「私たちは次の島に進むしかないわよ。」
前の島のログは溜まっているし、恐らく戻ったところでゾロはいないだろう。
「何でだ?」
「あいつがあんたに言わなかったのは、止められると分かっていたからでしょ。だったら。」
同じ場所に留まるような間抜けな真似はしないだろう。何らかの手段で、あの場所を離れることを考えるはずだ。
「船長がアホほどしつこいって、身を持って知ってるんだから。」
方向音痴は捜索が大変ねと、見上げるようにルフィに言う。淋しそうな、優しい笑みだった。
「あいつ、あれで結構な有名人だから、必ず情報は入ってくるはずだわ。」
「・・・そうだよな!ナミ。お前、頭いいな。」
あんたと違うのよ。
ルフィは顔を上げ、空を仰いだ。雲ひとつなく、太陽が照りつける。
今でも胸は苦しいのに、どうしてこんなに気持ちがいいのだろうかと、また泣き出しそうになってしまう。ぐっと下唇を噛んで堪えた。
俯くことはもう止めだと、ルフィは笑ってナミを見た。
「俺、チョッパーに謝ってくる。」
勢いよく船首から飛び降り、キッチンへと走っていく。ドタドタと騒がしい。
やれやれと、復活した船長の背中を見送りながら船首に背を預ける。
ナミはルフィに殴られ泣いていたチョッパーを思い描き、キッチンで嗅ぎなれない塩辛い香りを思い出した。
「ミソシル・・・だって。変な名前。」
船のずっと後ろには微かに島が見えている。ゾロが降りることを選んだ島。
チョッパーからゾロはいないと聞いた時、あの男はどう思ったのだろうと思う。
消える時は何も残さないのだろうと思っていたゾロは、考えを裏切り手料理を残して行った。よりにもよって料理を。
「残酷なのは誰なのかしらね。」
苦しませると知っていてゾロを手放さなかったのは自分たち。
苦しませると分かっていて置き土産を残していったゾロ。

髪をすり抜ける、優しい風が癇に障る。
船の後ろ、水平線にぽっかりと浮いていた島は、空と海に飲み込まれてもう見えない。





赤色ナミダ。end