黄色桃色。
静まり返ったキッチン。
乱暴に扱われ閉じなかった扉が、きいと音を立てて鳴いた。
ルフィはキッチンを飛び出てしまった。ナミはそれを追って行った。
殴られた勢いで壁まで飛ばされたチョッパーは、その場でまだ顔を上げないでいる。
「チョッパー、平気・・・なわけないか。」
困ったように笑いながら、ウソップが冷やしたタオルを持ってきた。
ロビンはテーブルに座ったまま。サンジはコンロの前に立ち、鍋の火を消した。
「みんなも。」
渡されたタオルを頬に当てるとヒヤリとする。身体がその冷たさに驚いて、ぐっと押し込んでいた涙が出てきそうだった。
「みんなも、殴っていいんだよ。」
殴られる瞬間に見た、ルフィの表情が焼き付いている。
怒っていた。当然だ。でも、それだけじゃない。
決め付けるようにそれを判断する事はできないけれども、同じ仲間として、恐らく自分の感じた思いは間違いではない。
ルフィの揺れる瞳の中には、船を去って行ったゾロの背中が映っていた気がした。
「剣士さんはそんな役割のために、船医さんだけに降りると言ったんじゃないと思うわ。」
じっと黙って動かなかったロビンが、目を合わせることなく言う。
「あなたは。」
あなたは誰も裏切っていないのだから、何か罰の様なものを受けなければならないなんて思わなくていい。
「涙を堪える必要はないのよ。」
ロビンの言葉に、チョッパーは息を止める。そうしなければ、大声で泣き出しそうだと思った。
自分にとって泣く事は容易いことだった。悲しい、苦しいと思えば、自然と涙が溢れた。
しかし、それは本当に悲しいのだろうか。苦しいのだろうか。そんなに簡単でいいのだろうか。
涙を流しているうちに、そんなことを思い始めた。
ならばと。
チョッパーは泣くまいと誓った。簡単でいいはずがないと思ったのだ。
堪えてこそ、自分の想いが少しでも相手に伝わるのではないかと思った。それを感じてくれる相手だからこそと。
「俺・・・泣かないって決めた。」
自分のためにはもう泣かないと。自分を慰めるための涙はいらない。
「チョッパー。」
呼ばれて顔を上げると、目線を合わせるためにしゃがんでいたウソップが立ち上がったのが見えた。
「俺、やることがあるから手伝ってくれ。」
そう言って、離れて行く。サンジに、マッチを貸してくれと言い、受け取ったその足でキッチンを出て行った。
ドアは静かに、優しく閉じられた。
「行って来い。手伝う気がないなら、行ってそう言って来い。」
火の点いていない煙草を咥えているサンジ。声も、その眼も優しいまま。
頷き、チョッパーはのろのろとドアの前まで歩いた。立ち止まると、ロビンとサンジの視線が背中を押しているのを感じる。
「ねぇ、サンジ。」
「ん?」
「サンジは、怒らないの?」
サンジはゾロが大事だったはずだ。ルフィもそうだけど、みんなそうだけど。
それとは別の、特別な想いもあったはずだ。
「あいつに、またなって言ったんだろ?」
「うん。」
だったら。
「だったら俺は羨ましいとは思っても、お前を怒るなんて事はない。」
それに、この胸に本当は怒りの感情があったとしても、それはチョッパーに向けるものではない。
「そうかな。」
「そうだよ。」
私もそうだわと、ロビンの柔らかい声がして、チョッパーはありがとうと言い、キッチンを後にした。
男部屋から船尾へと歩いていくウソップの背を見つける。
晴れた空が嫌なほど青くて、清々しくて吐き気がした。
進行方向と逆を見れば、ゾロの降りた島が小さくも視界に入る。早く消えてしまえと乱暴に思った。
ウソップの手には缶製のバケツ。もう片方の手に、何か紙の束のようなものを持っている。
船尾の、ゾロが眠っていた定位置にバケツを置くと、ウソップは持っていた紙の束を放り込んだ。
そして、サンジから受け取ったマッチに火を点ける。
「何を燃やすの?やることって、このこと?」
バケツの中を覗き込むと写真が数枚見えた。メリー号をバックに、全員で笑っている姿が映っている。
そして、そのネガ。
「嘘を、本当にする。」
そう言って、ウソップは火を点けた。
「何で!?皆が映ってるのに!ゾロだって!!」
パチパチと音をたてながら写真は燃える。クシャクシャに丸まって、黒く薄っぺらなものへと変わってしまった。
「この写真は俺が現像に失敗して、この世に一枚しかないものだ。」
チョッパーは燃え続ける写真たちから目を反らさないウソップの顔を見た。黒い瞳の中に、オレンジの炎が揺れる。
以前、ウソップがゾロに写真を渡したと言っていたことを思い出した。
ゾロの中から消える事が怖くて、たった一枚しかないと嘘を付いて押し付けたのだと言っていた。
「あの写真な。突っ返されるかなぁって思ってたんだけど、戻ってこなかった。」
ゾロはいらないと言っていたのに。
「ゾロが持ってるの?」
さぁなと、ウソップは眉を寄せて笑う。
バケツの中の炎は、燃やすものを失い縮んで行く。その様子を物悲しそうに、ウソップは笑みを作って見ていた。
そのまま完全に火が消えたことを確認し、バケツを持ち上げ、チョッパーへ振り返る。
「お前も祈っててくれよ。」
あの写真を。世界にたった一枚しかない仲間との写真を、ゾロが持っていてくれるように。
ウソップは持ち上げたバケツの中身が飛ぶよう、海に向けて振り回した。潮の風は、灰を音もなく舞い上げる。
大きく頷き、チョッパーは舞散る写真の残骸を見た。灰は海へ落ちることはなく、空へ向かって飛んで行く。
ゾロの降りた島へ向かって。ゾロの元へ向かうかのように。
はぁと息をつき、二人は顔を合わせて微笑み合った。不思議と悲しみはなかった。
船尾のゾロの眠っていた場所でウソップは自然と空を仰ぐように寝転んだ。
「泣いていいぞ。」
「泣かないよ。」
泣きたくない。簡単にゾロを想いたくない。この胸は本当に苦しいから。
ふっと、ウソップが笑った声が聞こえた。こっそり鼻を啜る音もする。
「ゾロを想って泣いてやれよ。淋しいんだろ?」
ゾロが好きだ。大切な仲間だ。その気持ちは本当なんだろう?
俺は泣くと言い、ウソップは拭うことなく涙を流し始めた。可哀想だと思わせるほど、鼻を啜りながら必死に息を吸い込んでいた。
ウソップを見てチョッパーは俯いてしまう。涙は、哀しみは伝染する。
そっと隠しておいた想いが、隙間から零れる。
ルフィの瞳の中で見たゾロの背中は今でもはっきりと見えていた。目を瞑っても消えてくれない。
足元に寝転んだウソップを見ると、同じように眠っていたゾロを思い出す。
それは引き金。後は溢れるだけだ。
ポロポロと涙が一粒、また一粒と落ち始める。
それでもまだ堪えようとしているチョッパーをウソップは下から覗き見た。
「ルフィもさ、お前に怒ってんじゃないと思うぜ。」
震える声のまま話すウソップの隣に座り、チョッパーはそっと殴られた頬に触れた。
「でも、ルフィは殴った。」
そうだなぁと、空に向かって言う。
「でも、あいつが怒ってたのはお前じゃないと思うんだよ。」
歯を食いしばり、瞬きも忘れ、まるで敵に向かうかの様に、チョッパーに飛び掛ったルフィの姿。
「多分、お前を殴るって形でしか外に出せなかったんだろうな。」
「よく分かんねぇ。」
「俺もだ。ルフィにしか分かんねぇ。」
本人も分かっていないのかもしれない。でも多分。
「ありゃ、とばっちりだな。」
嫌だなぁそれと、チョッパーは笑う。
「もうじき謝りに来るんじゃねぇか?」
面白そうだから、お前許さないって言ってみろよ。
ボロボロと涙を溢れさせたまま笑うウソップの隣へ、同じように涙を拭わないチョッパーも笑いながら寝転んだ。
空は一面、同じ色。
そんな空を二人見ていると、船首の方からチョッパーを呼ぶ声が響いた。
ルフィだ。ウソップの言うとおりだった。
チョッパーは目を閉じた。ゾロの真似だ。ウソップも同じく目を閉じている。
騒がしい足音を連れたルフィは、やってきたと同時に、躊躇いなしにチョッパーに飛び乗り抱きしめた。
頭をチョッパーの身体に擦り付けながら謝るルフィに戸惑い、丸い目をしたチョッパーにウソップは、ほらなと言って笑う。
船にいつもの騒がしさが戻った。それは、同じものではないけれど。
ウソップは、隣で絡み合う二人から空へ、空から海へと、ゆっくりと視線を向ける。
水平線上に浮いていたゾロの降りた島はもう見えなくて、ウソップは言えなかった別れの言葉を描いた。
でも、言葉なんて何も思い浮かばない。
ずるりと音を立てて啜った鼻水は、吸いきれず再び垂れる。
さよならなんかじゃない。それでも今はこんなにも苦しい。
灰で汚れた手を、ウソップはぎゅっと強く握り締めた。
黄色桃色。end