空色海色。
ルフィが飛び出し、それをナミが追う。
ウソップが静かに去り、それにチョッパーが続く。
キッチンに残されたのはロビンとサンジだ。
ロビンは音もなく、目の前のゼリーを口にしてサンジの背を見ている。
静かだ、そう思う。
沈黙は嫌いではない。慣れているし、それはずっと傍にいた自分の友のようなものだ。
しかし、静かすぎた。
初めてではないだろうか、息苦しいと感じたことは。
「みんな勝手だよね。まぁ、今に始まったことじゃないけどね。」
苦笑しながらそう言って沈黙を和らげたのはサンジだ。
煙草をくわえ直し、笑った後、窓の外の遠くを見ている。その先には誰がいるのだろう。
誰を、想っているのだろう。
「彼が、」
ロビンはキッチンに入ってから初めて口を開いた。口が重い。噛み締めるように、ゆっくりと喋る。
「彼がこの船にいないことを知っていたんじゃない?コックさん。」
「・・・どうして?」
イジワルな子どもの様に、サンジは少し笑っている。今はそれが胸に痛いと思った。
「ドクターが口を開いた時、あまり驚いていなかったから。」
それに、知っていなかったならきっと掴みかるのはルフィだけじゃなかったろう。
チョッパーが望んだ通り、サンジもチョッパーを罵り、殴りつけ。今こうして静かなのが不気味だと感じさせる事はなかったはずだ。
サンジは先ほどまでの笑みとは別の、崩れた様な力の抜けた笑みを浮かべため息をついた。
煙草の煙がフワリと舞う。
そっと煙草を口から外し、火を消した。
「知ってたよ。」
チョッパーに、ゾロを一人にしてやれと言われた後、こっそりと覗きに行ったのだ。
その時、その場に眠っているはずのゾロは、その場に居るはずのゾロは既に居なかった。
「内緒にしてたのはね、チョッパーへの意地悪かもしれない。」
「意地悪?」
「ズルイなぁって、思ったんだろうね。やっぱり。」
嘘だと知っている、知っていて黙っておく。その嘘が成功したと思わせてやる。でも。
でも、俺はお前が嘘を付いていると知っているんだよ。バカだなぁ。
そう思って選ばれなかった自分を守っていたのだ。
子どもだね、と言って笑う。大人ぶることなどないのに。
「でもね、居ないと分かった時もそんなに驚かなかったんだ。」
どこかで、やっぱりなぁと。もう居ない事を知っていたような気がする。
いつからか。島で一人いた時、胸に痛みを感じたあの時だろうか、分からない。
「俺も、」
俺も連れて行って欲しかったな。
その言葉は飲み込む。
不自然に切られた言葉に、しかしその先を何となく感じたロビンは静かに目を閉じ、聞き返すことはしなかった。
「離れていても同じ空の下、だったかしら。アレは嘘だと思わない?」
「え?」
指でスプーンを弾くと、ゼリーの入っていたガラスの器がチリンと鳴った。綺麗な、鋭い音だ。
「離れてしまえば終わりなのよ、私はそう思うの。」
剣士さんにも、そう言ったのだけれども。
「だって、彼が一人泣いている時を私たちは知ることが出来ない。」
サンジは黙ってロビンを見ている。
「私、以前彼を傷つけるだろうと思ったことを言ったわ。」
私のせいだ、と。私がもっと早く気付けばよかったのかもしれない、と。
「彼が否定することを知っていて言ったわ。きっと彼に否定して欲しくて言ったのね。」
思った通り、ゾロは否定してくれた。強く。酷く傷付いた声で。
「私はね、何もする気はなかったの。何も出来ないだろうから。」
でもね。
「今はそれが悔しいのよ。」
これを人は後悔と呼ぶのだ。
今頃そんなこと言って、どうするというのだ。自分を見つめて、自分がそう言う。
「何が出来るとか、出来ないとか。そういう事じゃなくて、少しでも剣士さんが笑えればいいと今は思うの。」
無理してじゃなくて、嘘でもなくて。
「だって、何かして欲しいなんて、彼は望んでなかったから。」
ただ、彼に傍に居て笑って欲しかった。そして、笑っていたかった。
それが、誰かのためとか、できることとか。そんなことではない、自分の望みだったのだから。
ロビンの前に置かれたままだったガラスの器を、サンジはそっと下げる。
そして、そうだね、と一言呟いた。
外が騒がしくなり始めた。
ルフィの叫び声が聞こえる。その後にナミの制止の声が聞こえる。
宥める声はウソップの声。混乱して何を言っているのか分からないのはチョッパーだろう。
船はもう元通りだ。たった一人が居ない事を、その空白を除いては。
サンジとロビンを呼ぶ声が聞こえる。緊急会議だと。
何のことやらと、しかし議題は何となく分かる気がする。
二人は目を合わせて笑うと、ゆっくりとキッチンを後にした。
潮風が柔らかに包む。フワリと髪が一瞬靡いた。
自然と、サンジの視線は甲板へと向かう。いつもゾロが眠っている場所だ。
いるはずのない人を追う瞳は彷徨い、空を見上げ、海を見下ろした。
澄み切った空色から深い海色へ。
この色はどこまで深くなるのだろう。いつから何もなくなるのだろう。
ゾロ、聞こえる?
苦しいんだ。何かが詰まっていて息ができない。
弾けて、壊れて。もう立っていられなくなるかもしれない。
思って、本当に壊れたことなんてない。
この身体は巧く出来ている。
揺れる海を覗き込む。ずっと深く、深く。見えない場所をも思い描いた。
もし、もしも。
今すぐにでも海の底に潜ったのなら、やはり苦しいのだろうか。
どうしようもない死に直面すれば。
彼を想って息が出来ないこの胸より勝る痛みを感じるのだろうか。
たとえ一瞬でも、見失えるだろうか。彼を想うことを。
サンジは手を伸ばした。
ゾロが船を降りたと知った時に感じなかった思いが溢れ出すのを感じる。
分かっていても、納得するのに随分と時間が掛かった。
「コックさんっ!?」
ロビンの声を背中に受け、サンジは伸ばした手をそのままに海へ落ちた。
水圧が身体を潰そうとするのを感じる。
息が出来ない。苦しい。
広い海が、奪ったところですぐに消えるような体温を吸う。
サンジが重いと感じるままに、身体は沈んでいった。
沈むままに見上げた海は、遮れない太陽の光をキラキラ反射している。
太陽の光を反射して揺れるゾロのピアスを思い出した。
どんな苦しさに身を置いても、例え死んでしまう前でも、きっと自分はゾロのことを想っているのだ。
消えることなんてない。
この胸の痛みとともに死んでいく。
バカだよなぁ、本当に。
海水に沁みる瞳を閉じた。
ゾロを抱きしめた時にいつも感じていた心音が聞こえる。自分の作り出した幻だろうか。
今涙を流したなら、この海よりもっと大きな海をもう一つ作れる。
そんなことを思い、ふっとサンジは笑った。
深い場所、その暗い海はサンジを痛いくらい冷たく抱きしめた。
空色海色。end