ツメヲカム。
ゾロが倒れて、チョッパーがゾロの病気を知った。
チョッパーは、それをクルー全員に説明した。クルーたちは、ゾロの記憶障害を知る。
そして、ゾロ自身も知る。
「俺はお前を尊敬するよ。」
まだ太陽が高いころ、珍しくキッチンに残ったウソップは、昼食の皿洗いに勤しむサンジの背中に言った。
ウソップはサンジがゾロを思う気持ちを知っている。
まだサンジが思いを胸に秘めていた頃の相談役でもあった。
男と男の恋沙汰など想像もしたことはなく、ましてやラブコックの異名を持つサンジがと疑いもしたが、
相手がゾロならば仕方ないのかもしれないと、違和感も嫌悪感もまるで風がふいたかのように姿を消した。
ウソップはサンジがどれほどゾロを思っているかを知っている。
思いの深さを測るなんて、ましてや他人の心など本来分かるものではないが、それを知っているつもりでいた。
だからこそ分からなかった。
「どうして、そんな普通なんだ?」
嫌いな茸を食べている時のように眉間に皺を寄せ、痛いものを見るようにサンジを見続ける。
ガチャガチャと食器が喧嘩をする音が響く。
「何言ってんだよ?」
その背中は静かだ。怖い位に静かだ。
流れるようにサンジは振り返った。振り返る表情は微笑んでいる。
本当に何も分かっていないように。信じることを止めてしまった人のように。
「ゾロのことだよ。」
恐らくサンジにとっては死刑宣告も同じ言葉なのではないかと思った。
それでもウソップは言わなければならない。
本当にサンジが何を考えているのかが分からなかったのだ。
ウソップの言葉に、サンジは一瞬にして微笑みを消し、感情を読み取られないようにか表情を無くした。
何も答えず、ジッとウソップの顔を見ていた。
言葉は発さなかったが、逃げる素振りを見せなかった。
「やっと思いを伝えたのに、こんなことになって。俺はお前はもっと取り乱すと思ったよ。」
喋りながら泣きそうになる。
しかし、サンジはもっと辛いだろうと。それをどうして押し殺しているのだろうと。
そして、己は何をすべきか、この事実にどう向かいあえばいいのかと。
きっと自分はサンジを心配しているわけではなく、自分がどうすべきか分からなくて不安になっているだけなのだと、ウソップは思った。
自分はまだ子どもだ。
だからこそ、自分よりも辛いであろう立場に立つサンジが、堂々としている事に嫉妬したのだ。
何て幼いのだろう。悔しくて奥歯をガリリと噛み締めた。
「取り乱す・・・。」
ボソリとサンジが呟く。自分で言う事によって、意味を確認するように。
しかし、昔ゾロが好きだと言ったサンジの海色の目は、刺すかのようにウソップを見つめたままだ。
「そうだよ。だって好きな奴の記憶が今もずっと消えてるんだぞ。何かするたびに、何か消えるんだ。」
甲板に出て、いつものトレーニングをしているゾロは、今だって何かを得るがために失っているだろう。
ランダムに消去されるメモリーは、次はもしかしたら自分かもしれない。
「知らない振りをしてるんじゃないんだろ?分かってるんだろ?もしかすると急にゾロにとって」
知らない人になっているかもしれないのに。
涙が溜まり、胸から何かが競りあがって来る。
最後まで言うことの出来なかった言葉は、自分しか知らない。
ウソップは望まない未来を拒絶するように、強く目を閉じた。
ビー玉のような大粒の涙が、ボロリと落ちた。
鼻水は壊れた蛇口から零れる水の様に、無様に流れ落ち啜る事が出来ない。
「ウソップ。」
涙と鼻水でドロドロの顔で、サンジを見た。
名前を呼んだ声は、酷く優しかったのに、サンジの顔は先ほどと全く変わっていない。
「俺たちに出来る事なんて何もない。」
優しさとは裏腹に、今までの何もかもを切り捨ててしまう言葉だ。
ウソップがサンジに投げた死刑宣告のように、その言葉はウソップにとっての死刑宣告に変わりはない。
「だったら。」
だったらお前は、どう答える。今のゾロにどう答えるんだ。
サンジの表情は、ふわりと和らいだ。
ああ、やっぱりお前はそうしていた方がいいと、昔ゾロがサンジの笑った顔が好きだと言った意味が分かった気がした。
昔。昔とはいつだろうか。
ウソップは腰から下げていた汚れたタオルで乱暴に顔を拭った。
以前、オイルを触っていた手を拭いたタオルは臭かった。顔もきっと汚れただろうと思った。
タオルはオイルと涙と鼻水でグチャグチャだ。
「それに、普通なんかじゃねぇよ。全然。いつも通りなんて、出来る奴の方が人間か疑うぜ。」
困ったように笑ったサンジは、どんな痛みの中ででも真っ直ぐに立っていようとするゾロを思わせた。
こいつは本当にゾロが好きなんだなぁと、拭った目にウソップは涙を滲ませた。
太陽を遮るパラソルの下で、用意されたドリンクを流し込む。
自分が思っていたよりも喉が渇いていたらしく、水分が染み渡る感覚は酷く心地よかった。
ゾロのことを聞いてから、ルフィは決してゾロから離れようとしない。
ナミはぼんやりと、トレーニングに励むゾロとそれを眺めるルフィを見ていた。
「考え事かしら?」
声のする方へ目を向けると、テーブルを挟んだ反対側に座り読書しているロビンが、手元の本に視線を向けたままの姿がある。
潮の匂いと水分をたっぷり含んだ風が吹く。
「分からないわ。」
「?」
「自分が考えてるのかも、分からないのよ。」
グラスの中身をストローで混ぜながら、カラカラと鳴るグラスと氷の音を聞いていた。
私を今、音に例えるなら正にこの音だと、ナミは声もなく笑った。
「ごめんなさいね。もっと私が早く気付いていれば良かったのかもしれないわ。」
「それは違うわ。あいつはもとから不良品だったのよ。みんな知ってたのよ。」
みんな同罪よ。だから二度と言わないで。
怒るわけでもなく、しかしきつい口調で言ったナミにロビンはもう一度ごめんなさいと、言った。
「心配するべきはチョッパーよ。まだ医学書を読み漁ってるんでしょ?」
自分が医者である限り、チョッパーは止めないだろう。
今も暗い部屋の中、真っ赤に腫らした目を休めることなく本と睨めっこしているのだ。
一番近いところにいて、誰よりもどういう病か知っている。
何が出来るか知っていて、誰よりも何も出来ない事を知っている。
「あの子が倒れないか心配だわ。」
「そうね・・・。」
本を大切そうに閉じ、ロビンはテーブルにあるもう一つのグラスに手を伸ばし、喉を潤す。
グラスの中は、トロピカルジュースで今の心と全く合わない甘いものだった。
コックはそれを狙っていたのかもしれない。気分転換にと。
しかし、それは胸の痛みを増すものだ。ナミも同じだった。
ロビンは痛みを染み渡らせるかのように、静かに目を閉じた。
ナミは痛みを振り切るように、叫んだ。
「ルフィ!!!」
トレーニングを終え、シャワーを浴びに行こうとしていたゾロにしつこく引っ付いていたルフィは引っ付く事を止めず、なんだ〜と、楽しそうに返事を返した。
あの日。
チョッパーが引き攣る声のままゾロの事を告げた時以来、ルフィは本当にゾロから離れようとしなかった。
ゾロが昼寝をしている時でさえ、じっと起きるのを待っているのだと言った。
今も、風呂に入ると言ったゾロに、俺も一緒に入ると駄々を捏ねているのだろう。
ゾロの汗臭いから離れろと、言っている声が聞こえる。
「あんた、いい加減にゾロから離れなさい!」
あたしだって本当はそうしたいのに。きっとみんなそうなのに。片時も離れたくなんてないのに。
それを言わないのは、自分がもう子どもではないからだろうか。
「嫌だ!!!」
船中に木霊する声は、きっと海の彼方にも流れて言ったに違いない。
力あるものは果てを知らない。
どこまでも突き抜けていくのだ。ルフィのように。又、ゾロのように。
「我侭言わない!あんた幾つよ!?シャワーにあんた達二人で入ったら、船が潰れるわよ!!」
「嫌だ!!!」
きっとウソップも聞こえている。彼が応戦に来るのは時間の問題だ。
ルフィに負けじと、声を張り上げるナミをロビンは笑いながら見ていた。
引っ付いたまま喚き散らすルフィを、迷惑そうに引き離そうとゾロは苦戦している。
「このアホゴム船長!!離れなさいってば!!!」
「嫌だ!!だって、ゾロが俺のこと忘れちゃうかもしれねぇじゃねぇか!!!」
ナミの喉がひゅっと空気を吸い込んで、言葉に詰まる。それを言うかと、目を見開いた。
「だからずっと一緒にいるんだ!ずっと離れなきゃいいんだ!!そしたら忘れねぇ!!」
ルフィはズルイ。
歯を食いしばり、掌を力一杯握り締め、ナミは急に襲ってきた凶暴な痛みに堪えた。
そうしなければ、きっと立っていられないと思った。
わかった。なら一緒に入ろう。ナミ、風呂場は壊さねぇから。見張っとくから。
ゾロもズルイ。少し位、何かに耐える姿を見せればいいのに。
「勝手にしなさい。」
残っていたドリンクを氷ごと口の中に入れた。
足音がする。ルフィとゾロが遠ざかる足音だ。
口の中に放り込まれた氷を、乱暴に噛み砕く。
目の下が熱くなってきているのを感じた。泣き出す前兆だ。
泣くのは嫌いなのにと思うと、更に涙が込み上げてきた。
「船長さんはズルイわね。」
噛み砕く音と、氷の冷たさが頭に響く。
ナミは少し前までゾロが立っていた場所を、まるで親の仇でも居るのかというほど睨み付けた。
私だってと、誰にも聞こえないように呟いた。
ツメヲカム。end