ウタガヒモセズ。
記憶をなくすなんて、どうなるか想像できない。
その時にならなければ、自分がどうするかなんて分からない。
でも今更分かったところで、それは手遅れなのだろう。
ボンヤリと空を見上げながらゾロは思った。
チョッパーにあまり今まで通りにトレーニングをするなと言われたが、最強の剣士を目指すことに変わりないゾロはいつも通りだ。
トレーニングして、眠る。
自分の記憶がなくなっていくことを知って、一番変わらなかったのは自分ではないかと思う。
最近、眠る前にボンヤリとそんなことを思うようになった。
今まで遭遇した強敵達も、大切にしたいと思ったもの達も、唯一の約束も、いつか失ってしまうという事に実感が持てなかったのだ。
そして、きっと今考えたことすらなかった事になってしまう。
記憶をなくすということが、忘れるということとは違うのだとゾロは知った。
「ルフィ。刀の手入れをするから離れろ。」
ずっとゾロに着いてくるルフィに、何度目か注意をする。
熱いだろうに背中に張り付いて、足をぶらぶら遊ばせている。
つまらないなら釣りをしているウソップと遊べばいいのだと、ゾロは面倒臭そうに溜息をついた。
「後ろにいるから危なくねぇ。」
しししと、悪戯っぽく笑い、ルフィは背中から離れない。
ルフィを剥がすことを諦め、ゾロは胡坐をかき、刀の手入れを始める。
すらりと白鞘から抜かれた刀身は、太陽を反射し直線に光を放つ。
目の前に翳し、曇りを見る。刃毀れもなく、見事としか言い様のない刀だ。
「綺麗な刀だよな。三本とも綺麗だ。」
首の後ろから刀を褒められ、なぜか自分が照れくさくなる。ゾロは、ありがとよと、言った。
「でも俺は一番こいつが綺麗だと思う。」
この白いのだと、ルフィが指差すのは、ゾロが刀身を眺めている白鞘の刀。
ああ、これは俺がガキのころ最強になると誓った、約束の刀だ。
そういってゾロは刀を再び太陽に翳す。
何本もの光が、太陽を浴びた刀から放たれ、輝きを増す。
ルフィは、おぉと、感嘆の声を上げた。
「なぁ。刀にも名前とかあるのか?」
「銘と言ってな。こいつらにもあるぞ。」
横に並べていた二本の刀を目の前に持ってきて、一つ一つの名を愛しそうに呼んでやる。
この赤いのが三代鬼徹。
妖刀でよ、呪われてるんだと。気性は荒いがおもしろい奴だ。
こいつの他にも、鬼徹と呼ばれる刀があるらしいんだ。いつかそいつとも勝負するかもしれねぇな。
この黒いのは雪走。
ローグタウンで鍛冶屋の親父がタダで譲ってくれた。軽く、切れ味も素直で、いい奴だ。
ルフィは分かっているのか、分かっていないのか、フンフンと頷いてゾロの楽しそうな顔を見ている。
そして、こいつが一番古い付き合いだな。
握りを確認するように、力を込める。
刀はゾロに答えるように、まるで身体の一部のように納まり、答えた。
幼いころの夢。ライバルとの約束。ゾロの全てを見てきた刀。
「約束の刀だ。銘を。」
急にゾロの声が途切れ、ルフィは不思議に思う。
顔を覗き込むと、吸い込まれたように刀を見るゾロの顔があった。
どうしたと、ルフィが訊ねようとした時。
「野郎ども〜!!飯だぞ〜!!!」
船中に響き渡る声。
「おぉ!ゾロ、飯だ!!」
ルフィは騒がしくキッチンに走って行く。
時々振り返り、早く来いと言う。
ゾロは、ああとだけ答え、動かなかった。
刀を食い入るように見つめる。
約束の刀。くいなの形見。海を出てからの相棒。
大切な、命にも等しい身体の一部だ。なのにどうして。
「くいな・・・。」
湧き上がる恐怖に似た感情を振り払うように、ゾロは呟いた。
その名を呼べば、自分は強くあれると疑わなかったからだ。それでも、拭い去れない。
ゾロは、約束の刀の、白鞘の刀の名を呼ぶことが出来なかった。
まるで何かに食い破られるように、小さな穴が増えていくように。
なくす代わりに得るものが、必ずしも穴を塞ぐに値するものとは限らない。
大切なものをなくし、それさえ気付かないまま生きる。自分は傷つかない。
考える事は苦手だ。それこそ迷路に迷い込んだように、グルグルと同じ風景ばかりを見なければならない。
夜の海は暗く、涼しげな風さえも不気味さを増すものでしかない。
ゾロは夜のトレーニングを終え、不安な小さな子どものように膝を抱え、丸くなった。
身体から何も逃げないように、ぎゅっと力を込めた。
「ゾロ。寒いの?」
足音で気付いていた。サンジもまた、ゾロが気付いていることを知っている。
知っていて、あえてゆっくりと歩み寄った。
コツコツと鳴る靴の音は、木造の床独特の温かみを帯びていた。
寒い。
そう言うと、サンジはゾロを包み込むように抱きしめる。親鳥が雛を守るように。
煙草の香りのするサンジのシャツに、ゾロは額を擦り付けた。
縋りつくように。助けを求めるように。シャツの裾を、そっと握り締めた。
「三代鬼鉄。」
ん?と、優しくサンジが耳を傾ける。
「雪走。」
ゾロが自分の刀の名前を言っていると気付く。
「・・・。」
しかし、もう一つの、大切な刀の名を呼ばない。
不思議に思い、サンジはゾロの顔を見ようとするが、ゾロはサンジのシャツに顔を埋めたまま起き上がらない。
少し震えている。その姿に、サンジは堪らなく切なくなった。
「和道。」
震えていたゾロの背中が、ピクンと反応し、震えが止まった。その背中を、今度は力を込めて抱く。
「和道一文字。」
しっかりと発音すると、ゾロが小さな声で復唱した。
安心したかと思った身体が、再び固く、小さくなろうとする。
そうすることで、自分を守るように。
サンジはそれを強く抱きしめる事しかできなかった。
ゾロは、身体の一部である刀の名を、約束の証でもある大切な刀の名を、失っていた。
「自分の刀の名も、昔の約束も、大切なものも、仲間も、夢も、この気持ちも、大事だと思っているはずなのに消えてしまうのか。」
くぐもった声で、顔を上げずゾロは問う。
「そういう病気なんだとチョッパーが言ってただろう。だからおかしいなんて思わなくていいんだ。」
腕に力を込めると、ゾロの鼓動までもサンジに響いてくるようだった。
「俺は忘れてしまうけど、お前は違う。」
急に俯いていた顔を上げ、ゾロは涙で汚れた顔を隠すことなく曝け出す。
ゾロは恐怖について思った。
以前、サンジに関係を止めようかといった時、サンジは怖いのだと言った。怖くないのかと言われた。
何が怖いのだと、思ったのだ。何を恐れるのだと。
「俺は、お前を俺のせいで傷付けるのが怖い。」
そう、これが恐怖だ。
「その上、俺はお前を傷付けた事も、何で傷付けたのかも知らないんだ。」
声を出さずにサンジは、ゾロと名を呼んだ。
眉が寄ってくる。この後、涙が滲むだろう。
サンジはゾロのために泣く。ゾロのせいで泣く。
シャツの裾を握る手にゾロは力を込めるが、振るえて上手く握れない。
喉も震えている。身体の奥が震えているのだ。ゾロの涙は止まらない。
それでも、薄っすらと笑みを浮かべようとするゾロを、サンジは酷く痛々しいと思った。
「全てなくして、お前に手を差し伸べられた時、俺は何の疑いもなくその手を取る事ができるだろうか。」
それでも生きていくんだろう。
もう一度、ゾロはサンジのシャツに擦り寄る。
苦い煙草の香りを深く吸い込み、目を閉じた。
ウタガヒモセズ。end