目ヲ閉ザセ、ソノ闇ヘ。



大切だったら覚えていられる。そんなの嘘だ。
それが本当なら、この様は何だと思う。
ゾロはひたすらに問い続けるのだ。
忘れたんじゃない、失くしてしまった。ここにはもう無い。
そういう病気だと言った。世界中で一番信頼できる医者がそう言った。
でも、そうかと言えるか。そんなの無理だ。
嫌だ。嘘だと言って欲しい。
誰が、何のために奪うのだ。助けて欲しい。助ける?誰が奪っている。自分自身だ。
そして傷付くのは、いつだって。





キッチンは明かりがなければ暗い。
昼間は窓からの光で随分と明るいが、今日に限って曇っている。
嵐はないとナミが言っていたが、船の中は荒れていた。
サンジは微かに開いたキッチンの扉から、そこに誰かがいることを知っていた。そして、誰かも。
「ルフィ。」
縮こまった背中は、いつもの輝きを感じることはできない。
返事をすることもなく、反応すらせず、ルフィは小さく丸まって椅子に座っている。
食事をするテーブルの席は決まっている。サンジが食事の準備をしやすくするためだった。いつの間にか決まっていた席。
ルフィの座るその場所は、いつもゾロが座る場所だ。
膝を抱えて、自分を抱きしめてやっているのだと思った。
「ルフィ。」
もう一度、名前を呼ぶ。柔らかく。
その声を、キッチンは淋しく響かせた。






その日も、ゾロの一番近いところにルフィがいたのだ。
いつだって傍にいた。それが自然と感じるほど、寄り添っていた。
まるで兄弟のように、まるで一つの形のように。
たった一つ。
だから、崩れる事なんてありえない。
その余りにも暖かな姿に、きっと誰もが思い描くことの無い事だった。
それなのに。
突然、ゾロが刀を抜いた。
「てめぇ、誰だ。」






ルフィは膝を抱えたまま、返事もしなかった。
多分そうなると、サンジは知っていた。それでも呼んだ。
ゾロの病を知ったときから、この船に乗る皆が覚悟を決めなければならなかったことだ。
皆、知っていた。いつかこの時が来ると。
「ルフィ。」
サンジはもう一度呼ぶ。三度目だ。
返事が欲しいわけじゃない。名前を呼ぶことしか出来なかったからだ。それ以上の言葉を知らなかった。
曇っていた空の隙間から光が差したのか、キッチンの窓側が明るくなった。
成長しているかのように伸びる光が、ほんの少しルフィを照らす。すると、ルフィが顔を上げた。
ゆっくりと。眠りから覚めたように。
「俺が一番にゾロを見つけた。」
一点を見つめながら喋るルフィの目は、戦っている時のようにギラギラしていた。
「俺が一番、ゾロの傍にいた。」
低く唸るような声は、長くそこにいた沈黙にじんわりと染み渡る。
「ゾロの一番は俺だ。何だって俺だ。」
自分を抱きしめたまま、顔だけ上げて。
強く握りこんだ手は、音がするのではないかと思うほど力が込められているのだろう。
それなのに、声は震えない。静かに、地を這うように、恐れさえ抱かせて。
しかし、サンジにはそこに込められる感情が見えなかった。
「だからか?忘れるのも、俺が一番か?」
こんなのちっとも嬉しくねぇと、ルフィは初めてサンジを見た。






誰かがいる。
そこには確かに、誰かがいるのだ。
張り付けになった自分の目の前に。括り付けられた縄を解いてくれた時に。
仲間になれと言ったのは誰だったか。
船の中で、いつでも笑って傍に居たがったのは誰だったか。
戦う時、ともに走り出すのは誰だったか。
確かに誰かといたはずなのに、誰だか分からない。
顔も、姿さえも見えない。誰も見えない。
「この船には船長がいたよな。」
「ええ。」
「俺は、船長を忘れたのか?」
「・・・ええ。」
みかんの木が作る陰に身を隠すように、ゾロは座っていた。隣にはナミ。
どちらも笑ってはいない。
「船長がいたのは覚えているんだぜ。」
ただ顔が。どんな人間だったか、分からない。その姿も、その人格も。
「分かってる。」
顔の筋肉を全く動かさず、ナミは言った。
ゾロは、はっと鼻で笑った。自嘲的な笑いだった。






「知ってる。お前の言いたいことは分かってる。」
あいつが悪いんじゃない。そんなの誰もが分かってるんだ。
「ルフィ。」
四度目。サンジには何を言うべきか分からない。やっぱり見つからない。
「あいつが俺を要らないって思ったわけじゃないし、皆同じ状況でたまたま俺がってだけだ。」
何が悪いとかじゃない。
「ルフィ。」
五度目。
「でも。」
それでも。
「何で・・・どうして・・・。こんなのってねぇよ・・・。」
再び伏せられた顔。膝の間に仕舞いこむように。
ズルズルと音がした。必死に鼻水を啜っているのだ。
隠す必要なんてないのに。皆泣いてる。
ナミも。サンジも。ウソップも。ロビンも。チョッパーも。
ゾロだって。
サンジは目を閉じた。拒絶するわけではなく。
今起きている事を。それを全部を抱きしめたいと思った。
「ルフィ。」
六度目。
名前を呼ぶのは、これが最後だっただろう。






雲の隙間から溢れるように零れた太陽の光に、緑の葉が輝く。
風が揺らすその姿が、まるで光を待っていたと、喜んでいるのだと思わせた。
ナミは目を細めた。
何も感じていたくないと思っていたのに、フワリとした暖かな気持ちに包まれた。
こんなに穏やかに、優しく。甘く、残酷に。
「ゾロ。」
隣に座るゾロは、無言でナミの方を見た。
泣いているかと思ったが、その目に涙はなかった。我慢しているわけでもないようだった。
「お願いだから、降りるとか言わないでね。」
ゾロの目を見て言った。逃げられないように。
「アンタは、誤解しているみたいだけど。一番辛いのはアンタなのよ。」
私達の痛みは、私達が望んで受ける事を選択した。でも、アンタは違う。
一番苦しいのはアンタなのよ。私達はそれでもとココに居させるの。ココに居てと願うの。
だからアンタは私達を憎むべきなのかもしれないわ。
誰もがゾロを思っている。ゾロも同じだ。大切だと。離れ離れなんて嫌だ。
想い合っていてもどうにもならない。大切にしたいと願っても、大切に出来ない。
誰かを願う事は、きっと凄い事なのだと思った。ゾロは仲間が出来た時も、サンジを受け入れた時も、確かにそう思ったのだ。
なのに、今はこんなにも苦しい。
その想いが守りたいモノにまで絡みつき、縛り付ける。それらは息をすることだってできない。
ナミは、ゾロが頷くのを待った。俺は船を降りないと、その答えだけを待った。
でも、ゾロは困ったように笑うだけだった。
望んだ答えは返ってこないと、ナミは涙を堪えた。女々しく泣くのは嫌なのにと、悔しい。
堪えようとしている涙に気付いたのか、ナミの頭に大きな手が被さった。
綺麗に手入れされたオレンジの髪を恐る恐る触れる手は、柄にもなく慰めようとしているのだろうと思った。
再び、フワリとした気持ちが顔を出す。
不覚にも涙が一粒零れてしまった。左目から、一粒だけだ。
「アンタは優しいわね。優しすぎて、涙が出ちゃったわよ。」
ナミは目を細めて、ゾロを見た。
ゾロは何も言わなかった。そっと、笑っただけだった。







目ヲ閉ザセ、ソノ闇ヘ。end