零レル音、耳ヲ塞グ。



部屋の中で一人、扉に背を向け、頭を抱えていた。何一つ動かなかった。
その音のない世界の扉が開き、突然の音にチョッパーが振り返ると、潮を含んだ風とともにウソップが部屋へ入ってきた。
ウソップは無言だった。
「ウソップ?」
悲しげな目をしていたと言えばいいのだろうか。大きな瞳に、涙とは別の悲しみの形を宿していた。
チョッパーは、ああと、思った。何があったのか分かった気がしたからだ。
この船の仲間達を、今ここまで悲しませる事が出来るのはたった一人だと、酷いかもしれないが、そう思った。
「ゾロが、どうかしたの?」
「・・・ああ。」
ウソップはチョッパーに背を向け、壁に近い場所に座った。
言う事で、それが事実だと思い知らされることを恐れている。
きっとウソップは、これ以上聞かれることを望んではいないだろう。
でも、この部屋へ来た。自分がここに居る事を知って、ウソップはココへ来たのだ。
それだけは嬉しかった。そう思ってもいいだろうかと、誰かに教えて欲しかった。






「少し酷いんじゃないかしら。」
甲板に立ち尽くすゾロの背中に声を掛けたのは、ロビンだった。
その場所には今まで、ウソップとゾロがいた。ロビンはそれを、少し離れた場所から眺めていた。
ゾロの手には一枚の写真が握られている。そっと、ゾロの手から写真を抜き取った。
抵抗せず、ロビンに答えず、ゾロは海を眺めていた。遠くを見ていた。
写真はウソップが撮ったものだった。
まだゾロが記憶を失くし始める前に、メリー号をバックに全員で撮ったものだ。
「私が思うに、あなたは受け取るべきだったわ。」
ゾロは答えない。
「でも、もしかすると彼はあなたに、ああ言って欲しかったのかもしれないわ。」






少し前。ほんの少し前だ。
いつものようにウソップは楽しげにゾロに話し掛けた。
後、二、三日で島に着くと、今朝ナミが言った。
久々に船を降りて宿で泊まるのも悪くないな、などと些細な事を話していた。
ゾロは頷き、微笑み、答えていた。
そんな中、ふと何かを思いついたかのように、滅多なことでは肌身から離さない大きな鞄の口を開き、ウソップは言った。
「そういえばよ、こないだ皆で撮った写真が出来たんだよ。失敗しちまって、一枚しか現像できなかったんだけど、やるよ。」
鞄から取り出された写真は、鮮やかな色でピカピカしていた。
ごちゃごちゃとしている鞄の中に入れていたとは思えないほど、綺麗で、傷一つなかった。
ウソップが、どれだけ大切に入れていたのか良く分かるほどに。
「ああ、あの時のか。貰えねぇよ、一枚しかないんだろ?」
「いいんだ。お前に持ってて欲しいんだよ。」
そう言ってゾロの手に乗せる。ゾロは綺麗なそれに傷を付けてはいけないと、そっと掴んで覗き込んだ。
皆笑っている。当たり前だろう、あの頃は今を知らない。
過去を思って、ゾロは笑った。優しい気持ちになれた。
ふわりと笑うゾロを見て、ウソップも嬉しくなる。
「受け取ってくれるか?」
写真に見入っているゾロの顔を覗き込むように、ウソップは言う。
「でも、これは、一枚しか。」
「いいんだって。一番持っていて欲しいんだ、お前に。」
言ったウソップの大きな瞳が、ゾロを頷かせる事を止めた。
同時に微笑んでいたゾロは、嘘のように消えた。
「いらねぇ、どうせ忘れちまうんだ。そんなことしたって、変わらねぇ。期待したくねぇ。」






自分が情けなかった。
一枚しかないなんて嘘だ。ああ言えば、きっと受け取ってくれると思ったのだ。
自分の気持ちを拒否できないだろうと思ったのだ。
己を押し付ける事で、ゾロを繋ぎ止めたいと思ったのだ。
そんな事しなくったって、ゾロは傍にいるのに。最低だ。
背を向けたまま俯いているウソップに堪らなくなり、チョッパーはその背をゆっくりと擦ってやった。
そうしていると、ウソップはポツポツと語り出した。
「俺は、ゾロに自分の気持ちを押し付けたんだ。少しでもゾロが楽になればいいなんて、でもそんなのきっと余計なお世話なんだ。」
それでも、知っていて、あえて言った。
大切なのだ。無くしたくない。それと同時に大切だと思って欲しいし、無くして欲しくない。
その願いに、祈りに、気付かないはずはないのに。
誰もが望んでいる事を、一番にゾロが望んでいる事を。
でも、きっとゾロはあの時、あの微笑んだ気持ちの時、一番触れて欲しくなっただろう。






空は晴れていた。でも少し曇っていた。
雲は少なかったが、太陽を隠してしまっていて、曇って見えていたから。
少し風が出てきている。進行方向の水平線には、辿り着く次の島はまだ浮かんでいなかった。
「もし、彼を思って彼を傷付けたんだとしても、彼はあなたを憎んではくれないわよ。」
それはこの船の全てに言えること。
「誰かが責められて、どうにかなるものでもないでしょう?」
そっぽを向いたままのゾロの横顔に、ロビンは出来る限り優しく話した。
ゾロも感じているだろう事を言った。言葉にすることによって、その形を見せようと思った。
「でも、彼もそれを望んでいたのかもしれないわね。あなたが傷付けてくれることを。」
ルフィを忘れ、次はチョッパーの能力を忘れた。
ナミの過去を忘れ、サンジの故郷であるバラティエを忘れた。
ウソップと、ロビンはまだ何一つ欠けていなかった。
だから。だからこそ。
少しでも傷を小さくするために、自分を憎んでさえくれれば、きっとゾロの悲しみも和らぐかもしれないと。
「お互いが傷付け合うしかないなんて、皮肉よね。でもきっと、離れてしまえば取り返しがつかないんだわ。」
ロビンは淡々と話しているようだったが、表情は憂いを帯びていた。
気付いていてなお、ゾロは遠くを眺める。
感覚を捨てたかのように、笑う事も、思う事も、傷つく事も止めようとしていた。
そんなゾロをロビンは痛ましく思った。
そう思い自分が、己はこんな人間だったのだと、始めて知った。悪い気はしなかった。
でも、出来る事なら、また別の時に気付きたかった。
「私のせいね。」
ぽつりとロビンが言うと、ゾロの肩が少し動いた。
「私が、もっと早く気付いていれば良かったのかもしれないわ。」
ゾロはロビンに振り返り、睨みつけた。その目が、それ以上言うなと訴えていた。
ロビンは怯えることなく、冷めた瞳で続ける。
「そうすれば、今より良かったかもしれない。何とかなったのかもしれない。」
「黙れ!!」
今まで、凪いだ海のように。ただひたすらに沈黙してきたゾロが、声を荒げた。
ロビンは、じっとゾロの目を見つめた。
「頼む・・・やめろ。やめてくれ・・・。」
そう言って、しゃがみ込んだゾロは、全てを拒絶するように、固く小さく丸まった。
「何でお前らは皆そうやって、悪くもない自分を責めるんだよ。悪いのは忘れちまう俺だろ?」
声が篭って聞こえ辛いはずが、ロビンの耳には風の音より、波の音より、何よりも鮮明に聞こえた。
「傷付くなよ、いちいち。俺が悪いんだから、俺を責めろよ。」
違うと言ってやりたかった。言うべきだと思った。誰が悪いわけでもない。そうゾロ自身も気付いている。
気付いていても、何かを責めなければ耐えられない。
だからこそ、その対象が己自身に向くのはゾロにとっては必然なのかもしれない。
それでも、あなたは悪くない。私も悪くない。
だから、そんなに自分を痛めつけなくていいのだと、ロビンは教えたかった。
しゃがみ込んだゾロの手を取り、優しく一撫でする。その手に写真を渡した。
ゾロはそっと顔を上げ、写真を再び覗き込んだ。
写真の自分達は、見えない未来に怯えることなく勇敢に立ち、誇らしげに笑っていた。






ウソップはチョッパーに話すことによって、いくらかスッキリしたようだった。
今は落ち着いている。辿り着くだろう島を思って、話を始めた。
しかし、そんなウソップとは対象に、チョッパーは黙り込んだ。チョッパーは焦っていた。
ルフィの記憶を失ってから、ゾロの記憶は急速に消え始めている。
そのことにゾロ自身も気付いているらしく、下手な事を言ってしまっては迷惑をかけるとでも思っているのか、随分と口数が減った。
もともと少なかったから、あまり違和感はない。
でも、確かに少ない。ないと言ってもいいほどに。
ずっとゾロは耐えている。
それでも、受け入れたくない現状、受け入れたくない未来は迫ってくる。
このままでは。
そう、このままでは。
きっと耐えきれなくなるだろうと。








零レル音、耳ヲ塞グ。end