ソシテ、凍エル。
何かが生まれて、何かが消えて。
そういうものだと誰かが言って。
でも、いざ目の前に迫る時、人がそれを受け止められるかは別で。
物事は生きているから変わっていく。そのままと望んでも、そんなの無理で。
だったら何が変わらないのだろう。
美しいものは美しいまま、楽しい事は楽しいまま。そこにあって、確かにあって。
霞んでいくものも、しかし更に美しく磨かれるもの。過去。記憶。
少し悲しいのはなぜだろう。そう思っているのに、笑おうとしているのはなぜだろう。
今を大切に。その今さえ危ういのに。
大切なものは大切なまま、自分にそれが残せないのだとすれば、どうする。どうすればいい。
あの人は。大切なあの人は。
その心に自分との思い出を、美しい額縁に入れて飾り続けてくれるだろうか。
『チョッパー。俺は、この船を・・・。』
「おっちゃん。このバナナ全部買うからさ、この玉葱をオマケして欲しいんだけど・・・。」
小さな港町だったが、近くに大きな国があるのだという。おかげで食材の品揃えがいい。
野菜も、肉も、魚も。新鮮なまま店に並び、サンジは心が弾んでいる。
次に着く島がどんな場所か分からないため、出来るだけ新鮮な食材を多く手に入れ、保存できる状態に加工しておかなければならない。
島のログが溜まるのは、1日で十分だという。そのため、今日中に食料を確保しておきたい。
「兄ちゃん、市場で買い物しなれてるみたいだけど、それは出来ないねぇ。」
この玉葱はこちらでは貴重な種類なんだよと、店主らしき男が言うが、そんなことサンジは知っている。知っていて言っているのだ。
「店、客が入ってないみたいだよな。」
男に耳打ちしながらバナナを持ち上げる。
男は苦いものを口に入れたような顔をした。ほんの一瞬だったけれど、見逃すはずはない。
店は市場を見て回った中、サンジの最も理想的だと思った店だ。しかし、客がいない。
値段も悪くないが、市場の中でも目立たない路地にある店。
特に目玉商品もなく、店事態も地味に見えるため、客の目を引かないのだろう。
「サクラになってもいいぜ、俺。」
そういうの得意でねと、ニッコリ笑ってみせた。男は睨みつけるが、サンジは笑みを崩さないままだ。
「・・・分かった!分かったよ、兄ちゃん。」
男はそういって、大きく息を吸い込んだ。
「さあさあ持っていきなっ!うちは新鮮さと安さとサービスが売りなんだよ!!!」
叫びながらバナナを渡す。
「いいねぇ!おっちゃん!!!この店の品は見たところ一番新鮮だし、安いし、オマケも最高だぜ!!」
サンジも大声で叫ぶ。
すると、その声を聞いた客が興味を持ったように店に寄ってきた。
俺はコックだから食材に関して嘘はつかないぜと、近寄ってきた客に言う。
確かになぁと、客は品物を吟味し始めた。その様子を見てか、別の客も寄ってくる。
「おっちゃん。あのマンゴーもつけてくれよな。」
店に客が増える中、サンジは男に耳打ちした。
男は苦笑し、まいったと言いながらマンゴーを6つ袋に入れ、サンジに渡した。
サンジは少し店を離れ、邪魔にならない外れ道で箱詰めにされたバナナと玉葱、マンゴーの袋をまとめた。
ギュッと音が鳴るくらい固く紐を結び、サンジは身体を起こした。
「おい、ゾロ。このバナナと玉葱の箱持っててくれよ。」
振り向いた先には、通り過ぎる見知らぬ人達しかいない。
そうだった。
今日ゾロは船に残ったのだ。
いつも騒がしいメリー号。
自然と、そこにある空気もキラキラと光っているかのような。そんな温かみを感じさせる船。
今はどうだろう。
ポカンと開いた穴に潜り込んだような薄暗さを感じさせ、音もない。
温かいなどと感じない、全く別の空間がそこにある。
島に着いたと同時に、それぞれは散り散りになった。
久々の陸地は小さな港町で、賑やかとは言い切れないが停泊する船はいくつかあった。
本日の約束事、『問題は起こさない』。いつも通りだ。
ルフィは元気よく跳び出す。それを追うウソップ。
彼らを横目に、ノンビリと船を降りるロビンとナミ。
船番はチョッパーで、ゾロも残ると言った。
サンジは買出しだ。
いつもなら自ら荷物持ちにと着いてくるゾロが、珍しく何も言わないことに不安を覚えたが、結局何も聞けずに船を降りてしまった。
チョッパーは島に着いたというのに、じっと黙っていた。
キッチンだけは、温かかった。人がいるから。
ゾロは主のいないその場所で、黙々と芋の皮を剥いていた。
コンロには湯の沸いた中鍋。ボコボコと音を立てながら湯気を吐いている。
慣れていないためだろう、ぎこちない動きをしながら、それでもゾロは続ける。
「何を作ってるんだ?」
テーブルに医学書を開いてはいるが、ちっとも読んでなんていない。
湿った青い鼻をヒクヒクさせながら、チョッパーが言った。ゾロの方は見なかった。
「スープ?俺、ゾロが料理出来るなんて知らなかった。」
俺だけかな?と、少し微笑んだだろう。
ゾロは振り向かなくとも、チョッパーの表情を読み取る事が出来た。
「でも、きっとサンジは知ってるんだろうな。」
「ああ。」
やっぱりなぁと、どこか残念そうに言う。
バラバラにされた野菜は、乱暴に鍋に投げ込まれた。少し鍋から湯が零れた。
「どうして、急に料理なんて?」
全くもってその通りだと思う。ゾロは困ったように微笑み、さぁなと答え考えた。
自分は、何も残すべきではないだろうから。
そんな半端な気持ちならば、何もしなければいい。でもと、ゾロは思った。
「少し前に約束したから、かもしれない。」
「かも?」
「ああ。」
気休めだろうか。だけど本当は、こんな約束じゃなかった。
二人で。
そういう約束だったから、これは守ることが出来てない。果たしたわけでもない。
守ったつもりで、果たしたつもりでいるだけだ。
これからも生まれ続ける罪悪感を少しでも軽くしたかったのだろう。
味噌を溶き、ゾロは鍋を覗き込む。独特のいい香りが顔を包み、湿らせる。
溜息が出た。作業が終わってしまったからだ。
鍋の蓋を、静かに閉じた。
「後は暫くこのままにしておけばいい。」
「そう・・・。もう、終わっちゃったんだ。」
弱火にして、ゾロはコンロを離れる。
テーブルの、チョッパーの向かいに立てかけてあった刀を手にした。そのまま、腰に挿す。
チョッパーは何も言わず、ゾロを見ていただけだった。
何も話さないまま、二人はキッチンを出る。そして、チョッパーを残して、ゾロはヒラリと船から降りた。
かかる衝撃を和らげるよう、膝をしっかり曲げて着地する。
ぐっと力を込め、身体を起こした。振り返るのかと思ったが、止まった後はそのまま歩き始めた。
ズボンの両ポケットに手を入れた後ろ姿が、いつもより頼りなさげに見え、堪えきれなくなる。
切り離そうとしていた感情の回路が、音を立てて繋がるのをチョッパーは、溢れ出た涙とともに感じた。
「ゾロ!!!約束して!!!!」
放った言葉をその背で受け止め、振り向かぬままゾロは聞いた。
「さよならじゃないって!帰ってくるって!!俺、絶対にゾロを治す方法を見つけるから!!!」
泣いてるせいで無駄に力の篭った喉から、搾り出すように叫ぶ。奥から血の味がした。そんなこと構わない。
「ゾロは嘘付かないだろ?だから、約束して。そしたら、もう止めないから・・・だから・・・。」
ゾロの背を見ていられない。チョッパーは力を込めすぎて震える、自分の手を見た。
何て小さな、力のない。こんなだからゾロは行ってしまうのだ。
自分は、ドクターに縋っていた頃と同じで、弱いままだと思った。情けなさに涙しか出ない。
・・・チョッパー・・・
名前を呼ばれたと思って顔を上げると、ゾロがこちらを見ていた。目が合う。
唐突に、俺はゾロに大切に思われていると、そう思った。
「味噌汁、皆で食ってくれよな。」
「・・・・うん。」
「サンジより下手だけど・・・また、作ってやるからな。」
「・・っ、うん!!」
じゃあなと、ゾロの背中が小さくなる。
そのまま人ごみに紛れていくが、チョッパーにはいつまでも見える。
いつまでも、きっとこの思いを、その背を描く事が出来るだろう。
大きな箱を二つ肩に担ぎ、片手で買い物袋を大量に持った。重い。
荷物持ちのゾロがいないというのに、随分と買い込んでしまった。
気持ちの不安定なゾロ、でも自分は傍にいることが出来る。
しかし、医者ではないのだ。何も知らないし、分からない。
それなら何が出来るかと考えた時、やはり料理しかなかった。
傍にいることが出来る。温かい料理を運んでやる事が出来る。
それはとても素晴らしいことなのだと、感じた。
だからこそ、いつも以上と言っていいほどの量に手を出してしまった。一人で船まで運べるだろうか。
「どうして、こういう時にいてくんないのかねぇ。あのマリモン。」
困ったように笑いながら、サンジは肩の荷物を担ぎなおした。
ふと、首元に冷たい風が吹きかかった。その不快さにサンジは振り返る。
建物と建物の間の細い隙間。人が通れるような場所ではなかった。
暗く、湿っぽい風が通り抜けていく。サンジはそれを受けていた。
風を受けた首元から、冷たさは背中へと落ちていく。そして、身体全体を震わすものになった。
どさりと荷物を落とす。
「サンジ?おい、どうした?手伝うか?」
偶然通りかかったのだろうウソップが声を掛けてくれたらしい。しかしサンジはウソップではなく、落としてしまった荷物を見ている。
ああ、おまけして貰ったマンゴーがバラバラになってしまった。
震えたまま、サンジはウソップを見た。するとウソップはぎょっとする。
「どうした?サンジ??」
マンゴーは幾つ貰ったっけ?ちゃんと人数分貰っただろうか。
「何が?」
確か、6つだった。一人分足りない。
「何がって、お前。」
平気だ。俺のとあいつのを半分にしたらいい。丸々食べたいと言うなら、あいつに一つやればいい。
震え続けるサンジは冷たさにか表情が固まったまま動かない。しかし、その瞳から。
何でもなかった。本当に何でもなかった。
そこはただの建物同士の隙間だ。道ですらない。何か見たわけでもない。
風が吹いただけだ。そうだ、それを受けただけだ。
でも、ゾロ。どうしてだろう。
急にお前に会いたくなって、そう思ったら急に。
震えは止まらない。冷たかった。ずっと。
歯がガチガチ鳴った。唇は紫だ。
サンジはその場で膝をつく。ウソップが必死に何かを叫んでいるが、何を言っているのか聞き取れなかった。
寒いと、言おうとしてゾロの名前を呼んでいた。すると涙で視界が揺れる。
暗い隙間から、離れていく足音が聞こえた気がした。
凍えそうだと思った。
船に帰りたい。そこにはゾロがいるはずだから。待っているはずだから。
力一杯自分を抱きしめる。ゾロが、何かを守るように膝を抱えた日のように。
結局は守れやしない。それでもとゾロは立っていた。
サンジの胸の中にずっと縫い付けていた物。
その細い糸が、抜き取られるようにサンジから出て行く。長い長い糸だった。
サンジに残ったのは穴。小さな、深くどこまでも続く穴だった。
その穴を塞ごうとサンジは胸を押さえ、もう一度ゾロの名前を呼ぶ。
足音を追うように顔を上げて隙間を睨むと、一度頬に出来た道を同じように涙が通った。
短く息を吸い込んだ。
これは予感だったのだろう。この唐突な、小さく何よりも長く深い穴が。
だって、ずっと繋がっていられたらと、二人は願っていたから。
サンジは涙を流し続けた。その痛みが何なのか、まだ知らずに。
もうメリー号に戻っても一番に会いたいと望む人が、それを望んでくれる人がいないことを知らずに。
ただ、何かを予感して、流れるまま。
胸が、痛むままに。
『・・・降りるよ。もう、誰にも、サンジにも・・・。』
誰もが望まないことだと知っていても。今ここで何か変えることが出来るのは自分で。
それが良いか悪いかとまでは望まない。一人で背負いきれるものでないことも分かっている。
でも結局、今のままでは誰もが泣いているばかりで。
それは自分が一番望まないことで。
静かなキッチン。
チョッパーは鍋の火を切った。
蓋を開けると優しい香りの湯気が昇り、すぐ消えた。雲みたいだった。
小さなお皿に、お玉で掬ったそれを入れる。ふうと吹いて、口にした。
ゴクン。
初めて飲むスープだ。ゾロは味噌汁と呼んでいた。
飲み込んだ温かさを、はぁと吐き出す。優しい味だと思う。
でも。
「しょっぱいや。」
チョッパーはもう一口、味噌汁を飲んだ。
メリー号にいる時、きっとゾロはいつだって泣いていた。涙を流さなくとも。
だからきっとこの味は。
チョッパーは目を細める。
とても悲しい。とても淋しい。とても胸が痛むのだ。
記憶に焼きついたゾロの背中と、その思いの逆流を。
塞き止めるように、優しく鍋の蓋を閉じた。
穴だらけのポケットの中で。
美しいものは、美しいままに。大切なものは、大切なままに。愛しいものは、愛しいままに。
凍らせてしまえばいい。どうか汚してしまう前に、腐らせてしまう前に。
凍えてしまえ、凍えてしまえ。
それでもあの人は。大切なあの人は。
その心に、こんな自分との思い出を、美しい額縁に入れて飾り続けてくれるだろうか。
ソシテ、凍エル。end